浅草寺(せんそうじ)とは、東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。
推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。
一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。
吾妻橋金龍山遠望 浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。
天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。
貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。
大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。
2014年6月11日、浅草寺に存在する仏像がサウジアラビア人に破壊されるという事件が発生した。犯人は慶應義塾大学大学院に通う学生。浅草寺の敷地内に置かれている仏像4体が、ひびが入るなどといった形で破壊された。 Шаблон:Clear
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。
風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。
雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。
雷門をくぐり、「仲見世」の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。
2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。
耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したものでそれらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。
内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は下段の間(手前)と上段の間(奥)に分かれ、下段の間には前立本尊の観音像(伝・円仁作)、上段の間には秘仏本尊像をそれぞれ安置する。浅草寺貫主を務めた網野宥俊によれば、宮殿内は、床は漆塗り、壁や扉は金箔押しで、上段の間・下段の間には繧繝縁(うんげんべり)の小畳を各2枚敷いている。上段の間には秘仏本尊を納めた厨子のほか、東福門院、徳川家康、徳川家光、公遵法親王がそれぞれ奉納した観音像が安置され、かつてはその他の寺宝類もここに納められていたという。
宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。毎年12月13日に開扉法要が行われ、短時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像を安置する。
2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは昭和33年(1958年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン成型瓦を採用。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。
再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。
重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻された。
Шаблон:Main 本堂の東側にある。拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。
宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。通常、一般には公開していないが、特別公開されることがある。平成23年(2011年)、国の名勝に指定された。院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。もとは名古屋にあった。
境内北側にて社会福祉法人 浅草寺病院を運営。明治43年(1910年)に関東大水害の被災者のための救護所「浅草寺診療所」を念仏堂に設けたのが始まり。1952年に現病院に改組。
宝蔵門のそばに「浅草不動尊」と「三宝荒神堂」があるが、天台宗の大行院という寺院で、浅草寺には属していない。
この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、初代中村吉右衛門句碑などがある。
浅草寺では先祖供養も出来る。
霊験あらたかと言われる浅草寺では毎日、家の宗派と無関係に先祖供養を受け付けている。浅草界隈を長年取材している五木寛之によれば、宗派を問わず全く無関係な人でも供養を申し込めるため、五重塔内の位牌には昭和天皇・マザーテレサ・ダイアナ妃の位牌まで存在するという。
毎日6時(10月から3月は6時半)、10時、14時から先祖供養、厄よけ、等の祈祷が行われる。
特定の個人の名前で受け付ける他、○○家先祖代々、という形でも受け付ける。
志納金は3,000円から。
秘仏本尊の聖観音像は、長期間にわたって見る者がなかったため、明治時代には実在が疑われるようになった。このため明治二年に役人が来て調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していたことが明らかになったという。この時の調査によれば、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ20センチほど、焼けた跡が伺え、両手足がなかったという。現在、常時拝観可能な「裏観音」が秘仏本尊と同じ様式であるとされるが、高さは89センチと異なっている。
浅草寺のおみくじは、細い棒の入った両手で抱えられる程度の大きさ・重さの角柱・円柱形の筒状の箱を振って棒を箱の短辺の小さな穴から一本出し、棒に記された番号の籤を受けとる方式であるが、その内訳は、大吉・吉・半吉・小吉・末小吉・末吉・凶の7種類であり、吉はお守りとして持ち帰り、凶を引いてしまった場合のみ、傍の結び棒にて、おみくじを結ぶ事としている。
招き猫の発祥については全国に由縁の地といわれるところがある中、記録と実物、錦絵などによってその発祥が確実視されるのが、ここ浅草寺境内である。武江年表や藤岡屋日記嘉永5年の項目には当寺境内三社権現鳥居横にて老婆によって今戸焼製の招き猫が売りだされ大流行になったと記されている。その特徴としては背面に丸に〆の陽刻があり「金銭や福徳を丸く勢〆る」という縁起が担がれたもので具体的に招き猫とも浅草観音猫とも丸〆猫(まるしめのねこ)とも記されている。また同じく嘉永5年に出された錦絵「浄るり町繁華の図」には浄瑠璃の登場人物になぞらえて丸〆猫を売る床店が描かれている。近年都内の近世遺跡からは色のとれた背面に「丸に〆」の陽刻のある招き猫が数件出土が確認されている。これら総合的に実物と記録のはっきりとして最古の招き猫の記録ということができる。
その他、江戸時代の絵馬が多数保存されており、中には谷文晁、菊池容斎、鈴木其一、歌川国芳、狩野一信、柴田是真のような著名絵師の作品もある。
古代から中世・近世(江戸時代)と長い歴史を有す浅草寺は、考古学上重要な歴史資料をその地下に包含した浅草寺遺跡でもある。戦災で焼失した五重塔再建に先立ち昭和45年(1970年)には再建地点の発掘調査が行われ、学術的に貴重な成果が得られた。特にこの調査は葛飾区葛西城跡の発掘調査や千代田区都立一橋高校内の発掘調査と並び、それまでの日本考古学では研究対象とされていなかった中世や近世(江戸時代)の遺跡調査の嚆矢となり特に近世考古学の出発点となる学史上の記念碑的調査となった。その後も台東区教育委員会による浅草寺境内及び周辺での発掘調査が地道に続けられ、従来の文献資料研究が描いてきた浅草寺及び浅草の歴史像の大幅な修正を迫る発見が相次いでいる。
浅草寺では、江戸開府400年記念事業として『輝く21世紀の浅草』をスローガンに、2003年10月から本堂・五重塔・宝蔵門・雷門のライトアップを始めた。ライトアップのデザインを手がけたのは、東京タワーやレインボーブリッジも担当した石井幹子。また、2010年からは二天門が赤・青・紫と色が変化するようにLEDでライトアップされるようになった。ライトアップ時間は、毎日日没から午後23時まで。夜は本堂の扉は閉められているが、参拝はできるようにされている。