兵馬俑(へいばよう)は、本来は古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったものを指す。現在では、秦の始皇帝の陵墓の周辺に埋納されたもののみをさすことが多い。ここでは、世界的に著名な始皇帝のそれについて記す。秦の始皇帝陵の一部として1987年、世界遺産(文化遺産)に登録されている。
史記や漢書など数々の歴史書には秦の始皇帝陵の存在は記されていたが、数々の動乱などにより所在地や存在そのものが忘れ去られていた。漢書には秦の始皇帝陵は項羽によって破壊されたと記されている。
始皇帝の兵馬俑が発掘されて、世界を驚かせたのは1974年のことであるが、この地域の住民の話を総合すると、以前から水を枯らす化け物等として、その存在は薄々知られていたようである。
本格的に発掘されるようになったのは、畑を営んでいた住人が井戸を掘ろうとして偶然見つけたのがきっかけだった。その当人は現在、博物館の名誉副館長となっている。
この大文物群が発掘され調査が行われると、人々を驚かせるような事実が次々に明らかとなった。
例えば、これらの兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはないことや、秦の軍隊がさまざまな民族の混成部隊であったこと及びかつての秦の敵国が存在した東方を向いて置かれていたこと等である。
また、この文物により、当時の秦軍の装備や編成等、これまでは文献史料のみでしか伝えられていなかったものが、こうして実物大のものとして現代に生きる我々の目の前に登場したことは非常に大きい意義がある。
1980年代に日本の各博物館・美術館で展覧会が開かれた。その折、ある展示場で酔漢が俑を押し倒し、頸部と左上腕部を破損する事態となった。ただし、破損した箇所は、まさしく発掘された時より破損していた部位であり、展示の爲に接着した箇所であることが知らされた。それほど俑は焼絞められていた。その様な硬度の俑が、如何なる理由で破損したかについては、地震や地殻変動の影響が、原因として上げられている。
現在の技術では俑に彩色された顔料が酸化することを防止できないことから、発掘作業が慎重にされているが、事実上、発掘は停止された状態にある。
21世紀に入った現在でも、この大文物群の調査・研究は続いている。近年の現地の研究者や日本の研究者の調査報告によると、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るべく配された軍隊と思われていたこの大文物群は、それだけでなく、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものであったようだ。すなわち、兵馬のみならず宮殿の実物大のレプリカや、文官や芸人等の傭も発掘されたのである。
2006年には、日本で初めて彩色の残る兵士俑が公開された。同年6月28日の新華社電によると最近では兵馬俑の眠る始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨がペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かった。
兵馬俑博物館]]