原爆ドーム(げんばくドーム、英:Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英:Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑である。もとは広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。二度と同じような悲劇が起こらないようにとの戒めや願いをこめて、ユネスコの「負の世界遺産」に登録されている(「負の世界遺産」という表現そのものには厳密な定義はないが、他にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群などがその例とされる)。
所在地は広島県広島市中区大手町1丁目10。原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園(地元メディアや住民には「平和公園」と一般に呼ばれる)が広がっている。北は相生通りを挟んで広島市民球場と向き合う。東側約200メートルの位置に、爆心地に比定される島外科(島病院)がある。
広島市は、日清戦争において大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していく(広島大本営の項を参照。統帥権をもつ明治天皇が行在し、広島臨時仮議事堂において第7回帝国議会も開催された。明治維新以降、首都機能が東京を離れた唯一の事例である)。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。
1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(も参照。「ヤン・レツル」との仮名表記もしばしば使用される)。ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。レッツェルの起用は、当時の寺田祐之県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じ頃レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。設計料は4575円。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋-広島駅間の汽車の運賃は三等で5円17銭、二等7円75銭、一等13円33銭で、広島市の人口は13万であった。
1919年に陳列所で開催された「ドイツ作品展示会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたことでも知られている。これは第一次世界大戦中に中国の青島で日本軍の捕虜となり、広島の沖合いに浮かぶ似島の捕虜収容所に収容されていたドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムによるもの。カールは後に神戸市で「ユーハイム」を創業する。
1921年に広島県商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年には広島県産業奨励館に改称された。この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献した。しかし、戦争が長引く中、1944年3月31日にはその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。
広島市への原子爆弾投下、原爆投下・10秒の衝撃#第2段階 100万分の1秒から3秒 「火球の出現」も参照。
1945年8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、原爆ドームの東150メートル・上空約580メートルの地点で原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で凄まじい熱線で包まれ、0.8秒後衝撃波に近い猛烈な爆風が襲い、1秒もかからない内に瞬間的に崩壊したと推定される。3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残存した。
その理由として、
などが挙げられる。これによりドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃が加わらなかったと考えられている。
建物内にいた職員など約30名は熱線と爆風で全員即死したと推定される。なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、自宅前で被爆し負傷したものの宿直者の中で唯一の生存者となった。
その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき産業奨励館は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。
広島の復興は、焼け野原にバラックが軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる頃には市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一部の市民からの、「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という意見も根強く、その存廃が議論されてきた。市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべき」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まったが、1960年に被爆による放射線傷害が原因と見られる急性白血病で亡くなった1人の女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記を読み感動した平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年広島市議会は永久保存することを決議する。翌年保存工事が完成。その後風化を防ぐため定期的に補修工事が行われながら保存されている。1989年に行われた2回目の大補修以降、3年に一度の割合で健全度調査が行われ、最近では、2009年に6回目の調査が行われている。1995年国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。さまざまな年齢・国籍の人が多く訪れるようになった一方、最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。
2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催され、「博物館に移設する」「屋根をつける」などの議論も出たが、2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された
原爆ドームの登録審議は、1996年に開催された世界遺産審査委員会で行われた。このときアメリカ合衆国は、原爆ドームの登録に強く反対。調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。また、中華人民共和国も、日本の戦争への反省が足りないとして、棄権に回った。
破壊された当時の形を保ったままの保存という特徴を持つ建造物である(但し、崩落や落下の危険性のある箇所は保存工事の際に取り除かれている)。定期的な保存作業が行われてはいるものの、年々風化が進んでいる箇所も確認されており、保存に非常に困難な面がある事は否めない。
また地震の多い日本の地理的特徴の点から、大型地震に対しての耐震性を考慮した保存工事が行われてはいる。しかし、あくまでも理論上の数値に基づいての耐震工事しか行われておらず、地震による崩落の危険性を常に抱えている。
2006年、周辺の緩衝地帯で高層マンション建設が進んでいることが発覚。周辺の景観が破壊され、同様の景観問題を抱えていたケルン大聖堂のように危機遺産へ登録されてしまうのではないかと心配されている(ケルン大聖堂の危機遺産リスト登録は2006年をもって解除)。しかし、原爆ドームは負の世界遺産であり、原爆ドームの存在が都市の発展を阻害するのはむしろ本末転倒ではないかという声もあるШаблон:要出典。
2007年7月28日、報道によると、広島市内で路面電車を運営する広島電鉄が、同社の電車内に、原爆ドームと厳島神社を並べて紹介した沿線案内を掲示し、「広島が誇る世界遺産」として紹介したところ、利用者や被爆者から抗議が複数件寄せられ、撤去していたことが判明した。同社では「原爆の惨禍を後世に伝えているという点で誇り、という趣旨だったが、誤解を招く表現だった」と釈明したが、被爆者からは、「同じ世界遺産といっても、原爆ドームと厳島神社とでは質が違っており、一括りに『誇り』として表現するのは乱暴」との批判が出ている。
広島空港からは、エアポートリムジンで広島駅に向かい、乗り換えるのが一般的である。以下も参照。
JR山陽新幹線・山陽本線広島駅から、広島電鉄市内線・宮島線のうち、1番(紙屋町経由広島港ゆき)と5番(比治山下経由広島港ゆき)を除くすべての電車に乗車、「原爆ドーム前」電停下車。なお、1番の電車でも、「紙屋町東」「本通」いずれかの電停から原爆ドームまで5分程度で歩ける。
または、市内各所を走るバスで、「原爆ドーム前」「紙屋町」バス停下車。乗る際に乗務員に確認するとよい。
地下街紙屋町シャレオの駐車場は大規模であり、それを利用すれば原爆ドームまで徒歩で1、2分でゆける。