かつての正式名称は「新東京国際空港」であったが、2004年4月1日、成田国際空港株式会社法が施行され、空港を管理する新東京国際空港公団(Шаблон:Lang)が、日本国政府による100%出資で設立された成田国際空港株式会社(Шаблон:Lang)に改組し民営化(特殊会社化)されたことに伴い、改称された。「Шаблон:Lang」の略称は、旧公団時代から引き継がれたものである。
日本国内では、上記の改称以前から広く「成田空港」もしくは単に「成田」という呼び方が定着している。また、国際的な視点から見ると、日本国の首都である東京の国際空港として機能しているため、千葉県内に空港が所在しながらも便宜上「東京成田」(en-short.
Tokyo-Narita)あるいは単に「東京」と呼ばれることもあるが、東京国際空港(通称:羽田空港)と区別するために後者は避けられることがある。
概要
- 開港:1978年5月20日
- 航空機発着回数:232,182回(日本第2位、1位は東京国際空港)
- 航空旅客数:37,328,213人(日本第2位、1位は東京国際空港)
- 国内線 6,720,743人
- 国際線 30,607,470人
- うち日本人 13,079,910人
- うち外国人 12,499,430人
- うち通過客 5,028,130人
- 航空貨物取扱量:2,035,968トン(日本第1位)
飛行場施設
- 空港敷地面積:1090ha(計画1,151ha)
- 滑走路
- A滑走路:16R/34L, 4000×60m(16R・34LともILSを装備 16RはCatⅢb)
- B滑走路:16L/34R, 暫定2500×60m(16L・34RともILSを装備)
- 着陸帯 ‐ 2620×150m(暫定。当初計画 2620×300m)
- 誘導路:延長 約25.5km 幅30m(一部23m、暫定計画を含む。計画延長は約34.2 km、計画幅は30m)
- 航空保安無線施設
- ILS 4式 (計画 ILS 6式)
- VOR/DME 2式(A滑走路:成田VOR/DME、B滑走路:北総VOR/DME)
- エプロン:面積 約218ha (計画面積は約260ha)
- スポット:137スポット(工事により一部閉鎖中のものを含む) (計画は143スポット)
- 運用時間:24時間
- 利用時間:6:00 - 23:00 (例外24:00)(人間の生活時間帯に制限)
- 誘導路の延長・エプロンの面積の推移は「誘導路の延長とエプロンの面積の推移」参照
空港機能
日本を代表する空の玄関口(ハブ空港)の一つであるが、後述する歴史的経緯(別項成田空港問題を参照)により、開港後35年以上経過した2015年現在も、建設計画自体が完了していない。開港後の拡張工事も進まず、騒音問題から23時〜6時(JST)の離着陸禁止や、東京都区部からのアクセス時間の長さ、国内線乗り入れ便数の極端な少なさなどの問題もあり、羽田空港の再拡張や再国際化や24時間運用が進められた。これに対し、成田空港も京成成田空港線の開業によるアクセス向上や、発着枠の拡大、23時~24時の例外的離着陸容認などで、競争力を高めようとしている。
1992年の第2ターミナル完成に伴い、管制塔からの航空機視認性が悪化するため新たな管制塔が造られた。従来の管制塔はランプタワーとして地上管制業務の一部を行い、新たな管制塔は航空管制業務を引き続き行う施設となっている。
A滑走路
A滑走路(第1滑走路)は、関西国際空港の第2滑走路(06L/24R)と並び、日本国内では最長の4,000m滑走路を有している。
しかし、開港以降も、A滑走路南端から約800mの位置に反対派の「団結小屋」が建つ未買収地が234m²残っていたため、アプローチ帯を建設できず、本来そこにあるべき進入灯をA滑走路南端から内側へ750mにわたって設置せざるを得ず、南側から着陸する場合は実質3,250mの滑走路としてしか利用できなかった。その後、当該範囲の土地取得により、2009年度(平成21年度)から、本来の滑走路内にある進入灯をアプローチ帯造成とともにそこへ移設する工事を行い、2012年(平成24年)12月13日に4,000mの滑走路として本来の運用を開始した。
B滑走路
B滑走路(第2滑走路)は、2002年5月に開かれた日韓ワールドカップに間に合うよう、同年4月18日に、当初計画の長さより短い2,180mの平行滑走路として暫定的に供用開始された。これは滑走路の用地買収が進まず、反対派住民の住居などを避けるため、B滑走路の一部を計画時より北西側に延伸させたためである。
延長が短いためB滑走路の離着陸には制約が設けられ、重量の大きなボーイング747以上の大型機と貨物を含む長距離国際線には使用できず、中小型機と国内線・近距離国際線のみに使用された。
本来の長さである2,500mへの延伸は、反対派の敷地を避けるため、条件派の土地を収用して空地となった北西方向へ320m延長する案が提示された。2006年8月開催の公聴会意見を踏まえて同年9月11日に当時の国土交通大臣・北側一雄がこの案を認可し、2009年10月22日から2,500mでの供用が開始された(方角と大臣姓双方の語句から俗に北側延長と言われている)。供用開始時期は当初2010年3月としていたが、2009年3月23日に発生したフェデックス80便着陸失敗事故の影響を受け、成田国際空港会社と国土交通省が協議をした結果、前倒しでの実施となった。詳細は「歴史」の節を参照。B滑走路では2,500m化に伴い、重量が大きく長い離着陸滑走距離が必要になる(エアバスA380を除いた)大型機の着陸が可能となった。また、長距離国際線ではアメリカ西海岸地域やモスクワへ向かう直行便が離陸できるようになった。
しかしB滑走路に並行する西側誘導路の一部が、空港反対派民家とその所有地を避けるため滑走路側に向かって「への字」に湾曲していた。このため、この部分を走行する航空機は離着陸機の滑走に合わせて一時待機を余儀なくされていた。これを解消するため、成田空港会社はすでに用地収得済みの「への字」部分についてカーブを緩やかにする改修工事を2010年11月末までに完成させ、2011年3月10日より一時待機は廃止された。これにより滑走路との安全距離が確保され、誘導路上での一時待機がなくなり発着効率が大きく向上した。
2009年7月30日には、B滑走路東側に新誘導路が供用開始され、東側誘導路は「離陸(出発)機専用」・西側誘導路は「着陸(到着)機専用」となり、誘導路の使い分けにより離陸までの時間短縮が可能になった。これにより、第2旅客ビル北側において着陸機がある時に行っていたB滑走路へ入るホールド(待機)は廃止され、ホールドスポットも廃止された。また2012年度末に新たにB滑走路西側誘導路と第2旅客ビル地区とを結ぶ誘導路増設工事を進めていたが、2013年3月7日より約720メートル延長された新誘導路と横堀地区エプロンを供用開始した。新西誘導路の供用開始により、第2旅客ターミナルビルのサテライトから出発した航空機がB滑走路南端から離陸する場合従来の東側誘導路を通るより走行距離が約1800m短縮され、所要時間も約220秒短縮されたことにより、2本の滑走路の発着数が1時間当たり58回から64回に増え、年間発着枠も25万回から27万回に拡大された。
C滑走路
C滑走路(第3滑走路)は、長さ3,200m・幅60mで主に横風用滑走路として計画されているが、建設工事は凍結中でC滑走路用地はC誘導路として使用されている。
横風用滑走路が整備された場合、強い北風・南風の際の着陸が容易になり、離着陸の遅れの減少、発着の効率性の向上・発着枠の増大が期待できる。しかし、空港反対派の熱田派はC滑走路用地内から撤退したものの、C滑走路用地内に別の空港反対派の所有地や、空港反対派支援者・協力者の一坪運動共有地が多数存在しており、またC滑走路南側部分の航空機整備施設区域に接している所には、駐機スポットが7スポット(512番、511番、510番、509番、508番、507番、506番)増設されている。誘導路を滑走路として再整備を行う際は、これらの7駐機スポットを撤去し代替の駐機スポットの用地が改めて必要となる。またC滑走路南側延長線上の山武市、富里市および北側延長線上の成田市大栄地区
(旧大栄町)が飛行コース下になることから、新たな騒音問題が発生する可能性がある。
2009年9月17日、成田国際空港会社はC滑走路上の6件の一坪共有地について訴訟を起こし、2013年4月25日、2件54人の地主に対して最高裁が持ち分売却を命ずる判決を下し、一連の裁判は4か所で空港会社の勝訴、2か所が和解で終結した。
D滑走路
4本目の滑走路の造設が計画されている。2014年、国交省の有識者会議では、B滑走路に東側に平行する新滑走路を建設することで1日あたり50-200便の増便が可能になるとされた。2015年、地元選出の与党議員らは、新滑走路建設を求めて周辺自治体や空港会社が参加する協議会を立ち上げて検討を進めることを明らかにした。費用は1000-2000億円とされる。
諸問題
運用・環境面の問題
成田国際空港会社は、B滑走路2,500m化の2010年以降年間発着回数を現在の1.5倍にあたる年間30万回にする試算を成田国際空港都市づくり推進会議に提示している。
その実現に向けては課題が山積しているものの、平行同時離陸を容認することなどで、そう遠くない将来実現するものと思われる。
この構想には、世界での国際ハブ空港としての地位低下防止と競争力強化、容量不足緩和の狙いも含まれている。また、国土交通省と成田国際空港会社で、25万回に増やす検討がされているという報道もある。
2010年10月13日に開催された成田空港に関する四者協議会で、成田空港の容量拡大(30万回)に係る確認書が締結された。空港会社は、年間発着能力を、最速で2011年度中に25万回、2012年度中に27万回、2014年度中に30万回に拡大させる方針である。
なお、周辺地域住民への環境配慮も必要で、成田空港では開港以来、住宅などの防音工事に400億円超、電波障害対策に200億円超など、合計3,200億円超の環境対策事業を実施しており、今後も実施され続ける予定である。
2010年3月28日より、基本的にA滑走路を離陸専用、B滑走路を着陸専用とする使い分けが行われていた。2011年10月20日より同時離着陸方式が導入され、両滑走路とも離着陸併用となった。2012年10月現在では、運航ダイヤがピークとなる午前、午後の合計約2
- 3時間程度、同時離着陸が行われている。
ただし、管制官の目視によって航空機の状況を確認するため、雨天など悪天候時には同方式での運用は停止される。しかし、2012年度中には航空機の監視装置が導入され、悪天候時でも同時離着陸運用が可能となる。なお、エアバスA380、An-124、An-225、ボーイング747等の大型機はA滑走路への着陸となる。
また、6時以前、23時以降の離着陸を禁止する「夜間離着陸制限」が開港以来設定されてきたが、2013年3月31日に、“門限”を悪天候などの場合に限り午前0時まで延長する、と緩和された。
警備・検問・入場制限
日本の空港では2015年3月まで唯一、世界の首都空港としても稀である「検問制度」が実施されていた。外国人を含む空港施設への入場者全員に「セキュリティチェック」と称して、検問所での身分証明書の提示が課せられていた。また、専門の警察機動隊である「千葉県警察成田国際空港警備隊」(空港警備隊
千葉県警察の部内呼称は「空警隊」)が検問所とターミナル内に常駐、巡回しており、世界的に見ても異例の厳重警備が敷かれ、Шаблон:要出典範囲
これは、日本国政府が空港建設を強行した開港までの歴史的経緯(三里塚闘争、成田空港管制塔占拠事件など)より、新左翼過激派によるゲリラ活動を抑止することが目的だった。その後の成田空港手荷物爆発事件やアメリカ同時多発テロの発生により、主な目的は不特定多数が集まるターミナル施設でのテロ警戒に変化している。
入場に際しては、空港会社の警備員がパスポートなど身分証明書を確認、旅客の場合は航空券の提示を求められる場合もあった。空港内店舗の従業員については社員証が必要(関係者専用の検問レーンがある)。情勢によっては抜き打ちでカバンなど手荷物を開梱して、荷物検査をされる場合があった。
また、反対派による集会が空港周辺で行われることが予想される場合は、従業員と旅客以外(送迎・空港見学・店舗利用など)の空港施設への立ち入りが、原則として禁止された。その場合は、対象者以外は検問所で引き返す(旅客が外国人であったり、介添えを要するなど特段の事情がある場合の送迎入場は許可された)。
日程が判明し次第、検問所への黄色い立て看板の設置と公式ウェブサイトの「トップページ」上、新聞の「政府広報」広告、首都圏のJR及び京成電鉄の各駅券売所で告知が為される。2000年代以降は、反対派勢力が少数派となっているため、年数回に留まっていたが、反対派敷地を空港会社へ明け渡しを求める絡みの裁判(審議・判決)が行われた直後に行われる傾向があった。2010年(平成22年)を最後に、反対派による集会等が行われていても、入場規制は行われていない。
検問所は、鉄道駅(成田空港駅、空港第2ビル駅、東成田駅)の出口改札(駅を出た時点で空港敷地内にいることになるため)と、空港施設に入る全ての道路上(新空港インターチェンジ出口に隣接する「第1ゲート」、国道295号沿いの「第2ゲート」他)に設置されていた。路線バスやリムジンバスと一部のホテル送迎バス・スカイライナーなどでは車内放送で空港到着前に「身分証の提示をお願いします」あるいは「空港での検問があります」とアナウンスされていた。
鉄道駅では、旅客機搭乗時の保安検査場と同様のレーン(列)式のものであり、荷物検査が伴わなければ、身分証明書提示のみの短時間で完了した。空港従業員と、それ以外の一般にレーンが区別されていた。
自動車では、空港の制限区域入口の道路上に、有料道路の料金所と同等の施設があった。全ての車(マイカー・タクシー・ホテルや私設駐車場の送迎車・リムジンバスを含む路線バス・貸切バス・貨物トラックなどの事業用車)が一時停車しなければならなかった。運転者は警備員に運転免許証やパスポート・職員証などを提示し、他に同行者や乗客がいる場合は、一人ずつ警備員が身分証明書を目視で確認した。
バスの場合は、警備員が車内に乗り込んで確認。自家用車やタクシー・トラックの場合は、鏡で車体の底面を検査されたり、トランクや荷室を開けるよう要求される場合があった。このため、敷地への乗り入れが多く混雑している際や、バスでの全員の確認には3
- 10分程度の停車時間を要した。
なお、道路上の検問所(ゲート)では、自動車が制止を振り切り、ゲートのバーを突破(破壊)した上で、施設内に不法侵入する事件が幾度か発生している。
-
2005年11月、侵入後に施設外へそのまま車で逃走した当時30歳代の男(単独犯)をパトロールカーが追跡、佐倉市内で追い付いて職務質問を行おうとした警察官2名を男が刺し、警察官の1名が殉職した。開港後の警察官の殉職は、これが唯一である。男は「飛行機の写真を撮るつもりだった」と供述しており、2006年9月に千葉地方裁判所で無期懲役判決が下された。(→#年表)
- 2010年9月には、侵入後に車を乗り捨て、行方を眩ませる事件(侵入者は行方不明)も発生している。
また、芝山鉄道線の区間では、常に空港警備隊所属の制服警察官複数人が往復乗車し、車内警戒にあたっている(当該項目参照)。警備情勢によっては、京成成田空港線のアクセス特急などの路線にも、千葉県警察の制服警察官が空港駅と途中駅の間を往復乗車し、同様の警戒にあたることがある。
2015年(平成27年)3月30日正午から、ナンバープレートや顔認証システムができる監視カメラが設置され、入場時の検問は廃止された(次項参照)。
警備体制の見直し
前述の警察による空港警備隊とは別に、NAAでも警備組織を子会社に置いて施設警備にあたっている。その人件費は2005年(平成17年)で94億円など、年間100億円近くになる。こうした警備費は空港経営に深刻な影響を及ぼしている。
2000年代後半には、検問警備維持費の負担に苦慮していることや改札検問による旅客流動の遅滞化、車両検問による渋滞発生などの事例が問題視されていた。京成成田空港線が開通する2010年(平成22年)7月を目処に、監視カメラの活用など警備の機械化を推進して改札検問を廃止し、他の検問についても順次縮小か廃止の方向を検討していたが、当時点では正式に決定されておらず、2012年(平成24年)10月時点でも、従来通りの状態となっていた。
2012年(平成24年)9月27日、NAAは定例記者会見で、現在の警備体制の見直しについて「速やかに関係機関と協議したい」と、前向きに取り組む方針を表明し、既に警備当局と事務レベルの協議を始めたことを明らかにした。
この背景には、2012年夏以降にジェットスター・ジャパンやエアアジア・ジャパンなどの格安航空会社が就航したり、羽田空港の再国際化による競争激化が挙げられている。
千葉県警察本部長は、科学技術の高度化などを例に挙げ、現行と同様な警戒体制を持つ機械警備の導入を行なえば、検問体制の見直しに前向きな姿勢を採り、そして「ノンストップゲート」化に備えた警備システムの導入により、2015年(平成27年)3月30日の正午をもって、検問は全面廃止となった。
なお、早朝に到着するバスで空港ターミナルビルに入館する場合、社会情勢次第では入場時に身分証明書の提示を求めることもある。
このように、厳重な警備体制が敷かれている成田空港であるが、過激派の武装闘争がほぼ沈静化された現在、空港ターミナル内で発見される「不審な荷物」の大半は、置き忘れや所有者の都合で置きっ放しにされる物であり、年間100件近く出動する爆発物処理班の出動も、徒労に終わるケースが殆どである。このため、空港警備隊は「空港内では荷物から決して離れないで」と、旅行者に注意を促している。
貿易港としての機能
成田空港の2004年(平成16年)度の輸出額は10兆6572億円、輸入額は10兆2978億円と、金額で国内第1位の貿易港である。輸出入品目としては、コンピュータなどの事務用機器、半導体など軽量で付加価値の高い機械機器等が中心となっている。
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主な輸出品目(平成16年度):半導体等電子部品(17.4%)、科学光学機器(9.4%)、映像機器(8.2%)、事務用機器(6.8%)、音響・映像機器の部分品(4.0%)
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主な輸入品目(平成16年度):事務用機器(15.6%)、半導体等電子部品(14.5%)、科学光学機器(7.9%)、音響・映像機器(含む部品)(4.3%)、医薬品(3.6%)
また、成田空港には、マグロなど魚介類の輸入通関が多く(平成23年度3万7916トン)、成田漁港の別名がある。
サービス施設使用料
国際線(出発のみ)、国内線旅客に対し、旅客サービス施設使用料(PSFC)、旅客保安サービス料(PSSC)を、航空券の発券の際に徴収している。
- 国際線
- 旅客サービス施設使用料(PSFC) 出発客: 大人2,090円 小人1,050円(第1・2ターミナル)
- 旅客サービス施設使用料(PSFC) 出発客: 大人1,020円 小人510円(第3ターミナル)
- 旅客サービス施設使用料(PSFC) 乗継客: 大人1,050円 小人520円(第1・2ターミナル)
- 旅客サービス施設使用料(PSFC) 乗継客: 大人510円 小人250円(第3ターミナル)
- 旅客保安サービス料(PSSC):520円
- 国内線
- 旅客サービス施設使用料(PSFC) : 大人440円 小人220円(第1・2ターミナル)
- 旅客サービス施設使用料(PSFC) : 大人380円 小人190円(第3ターミナル)
従来は、国内線旅客に対しては無料であったが、2015年4月8日の第3ターミナルオープンに伴い、国内線でも徴収することになった。
歴史
新空港建設の検討
1960年代になると、大型ジェット旅客機の増加に加え高度経済成長により年々増大する国際輸送における航空機の重要性が高まったため、滑走路の拡充による発着能力の向上が望まれた。加えて、1960年代中に就航すると予想され日本航空も発注した超音速旅客機の就航による滑走路の長大化も求められた。そのため、羽田空港の再拡張により航空需要に対応しようと検討が開始されたが、
- 羽田空港の沖合に拡張した場合、東京港の港湾計画との調整が極めて難しい。
- 当時の港湾土木技術では不可能であった。
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アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける。
- 仮に拡張できたとしても、空港の処理能力は20% - 30%程度の増加に留まる。
などの理由から、羽田空港の拡張のみでは長期的航空機輸送需要に対応できないことが判明した。
新空港建設と反対運動
このため、1962年より新たな東京国際空港の候補地についての調査が開始され、当時の運輸省は1965年6月1日に成立した「新東京国際空港公団法案」をもとに、「新東京国際空港」として新東京国際空港公団を中心に新空港を建設するための候補地の検討に入った。候補地としては、千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地や印旛郡富里村(現・富里市)、茨城県霞ヶ浦、神奈川県横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地などがあげられた後で、最終的に佐藤栄作内閣(中村寅太運輸大臣)は、建設予定地を千葉県成田市三里塚に変更することを1966年7月4日に閣議決定した。これは、国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林、またその周辺の土地は開拓農民(その多くは満州からの引き揚げ者)の物であったため、用地買収は容易に進むと考えたからである。
しかし、地元農民の一部は買収に伴う移転や騒音問題から空港建設に猛烈に反発し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し反対活動を開始した。更に日本の新左翼が支援を開始し激しい実力行使やゲリラ闘争が行われた(三里塚闘争)。用地買収は停滞したため、政府は土地収用法に基づき行政代執行を1971年に2回行い、1期工事の用地を取得した。この際、警備の警察官3名が反対派による襲撃を受け殉職した(東峰十字路事件)。また、反対派は鉄塔を建てて対抗したが、1977年5月6日に撤去された。これに抗議する集会で反対派と機動隊が激突し、反対派支援者1名が死亡した(東山事件)。また反対派によって芝山町長宅前臨時派出所が襲撃され、警察官1人が殉職した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。
開港4日前にあたる1978年3月26日、成田空港に反対派ゲリラが管制塔に乱入し管制塔内の機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)ため、開港が5月20日まで延期となった。関連して1978年5月5日には京成電鉄の特急「スカイライナー」用車両が宗吾車庫で放火され、1両が焼失したほか、数編成が被害(後に復旧)を受けダイヤに支障をきたした(京成スカイライナー放火事件)。開港後も過激派の活動が続き、警察は厳重な警備を敷いた。
福田赳夫内閣は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」を制定した。この管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察本部警備部に新東京国際空港警備隊が発足し、現在の成田国際空港警備隊に至っている。
開港後
1978年(昭和53年)5月20日に開港したものの、それ以後も反対派によるテロ・ゲリラ事件などが多発し、特に1985年(昭和60年)10月20日には、千葉県成田市の三里塚交差点で、極左グループと警視庁機動隊が衝突した事件が発生したり(「10.20成田現地闘争」)、千葉県収用委員会の会長が、千葉市で襲撃された事件(千葉県収用委員会会長襲撃事件)が発生した。これらの事件により、正常な運営、あるいは二期工事の着工さえおぼつかない状況に陥ったが、1991年(平成3年)11月から隅谷三喜男東京大学名誉教授のほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催され、引き続き1993年(平成5年)9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で今後の成田空港の整備を民主的手続きで進めていくことが確認された。
円卓会議の結論を受け、最終的には1995年(平成7年)に当時の内閣総理大臣・村山富市が謝罪、これを地元が受け入れ、その後二期工事への用地買収に応じる地主が出てきた。懸案の二期工事のうち平行滑走路については、1996年(平成8年)には、未買収地を避ける形で暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定供用開始した。隅谷三喜男団長を始めとする中立委員の努力や、日本国政府の謝罪などもあって、反対派住民の態度も次第に軟化した。その結果、反対運動に乗じて、単に違法かつ過激な反政府活動を行っていただけであった反対派は逆に完全孤立化し、事態は収束に至っている。
ドイツのミュンヘン空港は、このような紛争を避けるため、徹底して成田国際空港の事例を研究し、反対派を十分に説得した上で建設されている。日本でも、成田国際空港での経験を元に、後に建設された関西国際空港や中部国際空港の大規模国際空港は、騒音問題などが発生しにくい郊外の海上を埋め立てて造られるようになった。
年表
空港開設まで
- 1962年(昭和37年)11月16日:新空港建設の方針を閣議決定。
- 1963年(昭和38年)
- 6月10日:運輸省航空局が検討資料「新東京国際空港」を発行。4000 m滑走路2本、3600 m滑走路1本、2500
m滑走路2本の巨大空港案が計画される。立地箇所については特定はされていない。
- 8月27日:富里案および霞ヶ浦案を運輸相が提示。富里・八街反対同盟が結成される。
- 1965年(昭和40年)11月19日:閣僚会議懇談会が開かれ、富里案に内定する。
- 1966年(昭和41年)
- 3月15日:富里村(現・富里市)・八街町(現・八街市)・山武町(現・山武市)・酒々井町の5町村長が「富里空港返上声明書」を提出決定する。
- 6月22日:佐藤栄作首相(当時)が友納武人千葉県知事(当時)に成田市三里塚案を提示する。
- 7月4日:佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に決定。
- 7月30日:新東京国際空港公団 (NAA) 設立。
- 1967年(昭和42年)8月1日:「公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律」が公布、施行。
- 1968年(昭和43年)2月26日:三里塚芝山連合空港反対同盟と機動隊が衝突。
- 1971年(昭和46年)
- 2月22日:建設予定地で第1次行政代執行。反対同盟と機動隊が衝突。
-
9月16日:東峰十字路事件。建設予定地で第2次強制代執行。反対派の鉄塔が倒される。千葉県へ応援派遣されていた神奈川県警察特別機動隊員30名が東峰十字路付近で過激派数百人に襲撃され、そのうち3名が殉職した。
- 1977年(昭和52年)
-
5月6日:4,000m滑走路の南側延長上に反対派によって建設された、高さ約30mおよび、約60mの鉄塔2基が航空法第49条違反の物件であるとして、空港公団は千葉地方裁判所に妨害物除去仮処分命令申請書を提出。千葉地裁の仮処分決定を受け、2基の鉄塔が除去される。
- 5月7日:運輸省航空局のYS-11型機によって、航空保安施設のフライト・チェック(飛行検査)が実施される。
- 8月22日:進入表面等の制限表面の上に出る立木の伐採が完了。
- 11月11日:銚子市上空の飛行に関する合意を同市から得る。
- 11月26日:飛行場および航空保安施設の完成検査に合格。空港公団は新空港の供用開始日を、運輸大臣福永健司に提出。
- 11月28日:運輸大臣福永健司が開港日を昭和53年3月30日と告示。
-
12月3日:ICAO(国際民間航空機関)および関係50ヵ国に対し新空港開港に関わるノータム(航空情報)を発出し、新空港開港を宣言する。
成田空港の開港
- 1978年(昭和53年)
- 3月24日:財団法人空港保安事業センターが開設。
-
3月26日:開港4日前の新東京国際空港に過激派ゲリラが地下道を介して突入し、空港管理棟16階の管制室の機器類を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。
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3月28日:新東京国際空港関係閣僚会議において、新空港開港(3月30日)延期を正式に決定。運輸省も新空港開港延期に関わるノータムを、世界の航空関係機関に発出する。
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4月4日:新東京国際空港関係閣僚会議において、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」を決定。新たな開港日を5月20日に決定。運輸省は新たにノータムを全世界に発出する。
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5月5日:車両基地に留置中の京成電鉄の特急「スカイライナー」に過激派が放火、1両が全焼(京成スカイライナー放火事件)。
-
5月20日:開港。空港ターミナルビルでの式典は、厳戒の中、関係者のみ出席の開港式で、ターミナルには一般乗客が誰一人いないひっそりとした式典だった。
- 5月21日:開港後の初便である日本航空のロサンゼルス国際空港発のダグラスDC-8-62F貨物機が、第1便として着陸。京成電鉄空港線(京成成田駅
-
成田空港駅、現:東成田駅)が開業。京成上野駅からの特急「スカイライナー」が運行開始。新空港自動車道と新空港インターチェンジが供給開始。
- 5月27日:中核派によって、国鉄成田線、佐原 -
大戸間のCTC(列車集中制御装置)の回線が切断され、航空燃料輸送列車が立ち往生する。
- 7月:新東京国際空港警備を目的として千葉県警察に新東京国際空港警備隊が創設される。
- 8月2日:過激派がリムジンバスのターミナルである東京都中央区の東京シティエアターミナルに火炎車を突入。
- 9月4日:過激派が成田市の京成電鉄ガード下にてトラックを炎上させ鉄道輸送を妨害。
-
9月7日:千葉県八千代市など数か所で電話同軸ケーブルが切断され、茨城県北相馬郡守谷町(現・守谷市)守谷VOR/DMEおよび同県稲敷郡阿見町阿見VOR/DMEの機能が麻痺する。
- 9月16日:過激派が成田市荒海のアウターマーカーを火炎瓶などで破壊。
- 1979年(昭和54年)
- 8月30日:千葉市高浜(現・美浜区高浜)新空港用燃料パイプライン工事現場において、中核派による時限発火装置によって火災が発生。抗打機4台が全焼する。
- 9月7日:過激派が空港第9ゲートより侵入。車両を火炎瓶等によって炎上させ、滑走路燈などを破壊する。
-
11月23日:大阪国際空港発東京国際空港行きの日本航空112便ダグラスDC-10がハイジャックされ、犯人は操縦室に押し入り、機長などを脅迫して日本航空112便を成田空港に強行着陸させる。犯人は操縦室に突入した乗客らによって逮捕。
1980年代
-
1980年(昭和55年)10月18日:過激派が京成電鉄高砂検車区、京成上野駅、京成電鉄宗吾検車区に停車中のスカイライナーに時限発火装置を仕掛け、一部炎上させる。
- 1981年(昭和56年)
-
3月16日:鹿島港から土屋燃料中継基地に向かっていた燃料輸送列車が、千葉県神崎町内で過激派に襲撃、放火される。幸いジェット燃料には着火しなかった。
- 5月11日:茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)内で鹿島線の橋桁(第2宮中架道橋)が溶接機で切り取られているのが見つかる。
-
1982年(昭和57年)3月13日:中核派によって、国鉄鹿島線、国鉄成田線、国鉄総武本線などの信号ケーブルが切断される。また、国鉄西船橋変電所が時限発火装置によって爆破され、空港用航空燃料輸送列車の運行停止を招く。そのため、県内の列車運行に大きな乱れが生じた。
- 1983年(昭和58年)
- 6月:過激派が空港建設に携わる企業の作業員宿舎を放火。民間人の作業員2名が焼死。
- 8月8日:航空燃料B系パイプライン供用開始(航空燃料暫定輸送終了)。
- 1984年(昭和59年)
- 6月23日:開港以来の国際旅客5,000万人達成。
- 8月1日:航空燃料A系パイプライン供用開始。(1日あたり2万2,000 kl、年間最大800万 kl)
- 11月14日:燃料パイプライン1本が、過激派の襲撃によって停止する。
- 1985年(昭和60年)
- 6月23日:第1ターミナル2階の荷捌き場でカナダのバンクーバーから到着したカナダ太平洋航空機に積まれていた航空貨物が爆発、2名が死亡し4名の負傷者が出る(成田空港手荷物爆発事件)。
-
10月20日:10.20成田現地闘争。千葉県成田市の三里塚交差点で極左グループと警視庁機動隊が衝突。241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕した。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突であった。
- 1986年(昭和61年)11月26日:第2期工事に着工。
- 1988年(昭和63年)
- 3月19日:開港以来の国際旅客1億人達成。
-
9月21日:成田空港の土地問題を担当する千葉県収用委員会会長が千葉市内の帰宅中に武装した数人の男に襲撃され、瀕死の重傷を負う。事件後中核派が犯行を自認する(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。
-
10月24日:千葉県収用委員会会長以下全委員が辞表を提出。千葉県収用委員会の機能は事実上停止に陥る。以後、機能停止状態が続いていたが、2004年(平成16年)12月8日、16年ぶりに機能回復した。ただし成田空港に対しては、土地収用法の適用は現段階では対象外としている。
- 1989年(平成元年)2月28日:第1旅客ターミナルビル南ウイング附属棟完成。
1990年代
- 1990年(平成2年)
- 9月28日:開港以来の国際旅客1億5,000万人達成。
- 11月6日:開港以来の発着回数が100万回達成。
- 1991年(平成3年)
- 1月18日:開港以来の航空貨物取扱量1000万トン達成。
- 3月19日:成田線成田駅 - 成田空港駅間、京成本線京成成田駅 - 成田空港駅間が開業。
- 8月1日:2期区域エプロン一部供用開始。
- 11月21日:第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回開催)。
- 1992年(平成4年)
- 2月20日:情報通信センター、北オペレーションセンター供用開始。
- 12月3日:第2旅客ターミナルビル地下駅「空港第2ビル駅」供用開始。
- 12月6日:第2旅客ターミナルビル供用開始、第1旅客ターミナルビル北ウイング、第1および第2サテライト閉鎖。
- 1993年(平成5年)
- 2月2日:新管制塔供用開始(全高92.3m)。
- 2月5日:開港以来の国際旅客2億人達成。
- 5月24日:第15回成田空港問題シンポジウム開催(終了)。
- 9月20日:第1回成田空港問題円卓会議開催(以後12回開催)。
- 1994年(平成6年)
- 9月15日:A滑走路16(北側)進入方式フルカテゴリーII運用開始。
-
10月11日:成田空港問題解決のための第12回成田空港問題円卓会議で、国と反対派が学識経験者による調停案を受入れ(円卓会議終了)。
-
1995年(平成7年)4月8日:開港以来の国際旅客2億5,000万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。
- 1996年(平成8年)
- 3月28日:ILSカテゴリーIIIa運用開始、およびストップ・バーシステム供用開始。
- 7月1日:新東京国際空港公団 (NAA) 本社が成田空港内に移転。
- 1997年(平成9年)
- 4月3日:開港以来の国際旅客3億人達成。
- 10月13日:開港以来の航空貨物取扱量2,000万トン達成。
- 1998年(平成10年)
- 1月22日:芝山鉄道線建設工事起工。
- 2月1日:第1旅客ターミナルビル第1サテライトの供用開始。
-
2月2日:空港へ迫撃弾2発と金属弾1発が打ち込まれ、貨物地区の作業員1名が迫撃弾の破片に被弾。救急車で近くの病院に搬送される。迫撃弾のうち1発は近くで破裂、金属弾1発は不発だった。
- 4月25日:1日の発着枠を360回から370回へと改定。
- 5月27日:「エコ・エアポート基本構想」を発表。
- 7月15日:「地域と共生する空港づくり大綱」発表。
- 11月10日:NAAとアメリカの「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」の間で初の姉妹空港の締結を調印。
- 11月18日:成田空港 - 羽田空港間直通列車運転開始。
- 12月23日:開港以来の航空機発着回数200万回達成。
- 1999年(平成11年)
- 3月16日:第1旅客ターミナルビル北ウイング・中央ビル新館供用開始(南ウイング閉鎖)。
- 4月27日:新消音施設(ノイズリダクションハンガー)竣工。
- 5月10日:平行滑走路2000年度完成目標断念を発表。
- 9月3日:平行滑走路等の整備に関する工事実施計画の変更認可申請。
- 9月12日:太陽光発電システム運用開始。
- 12月3日:平行滑走路工事着工。
-
12月26日:17時23分頃、京成上野発の特急電車が成田空港駅到着直後に2両目座席下から発火。西馬込発東成田行急行電車においても東成田駅到着前に座席下から出火。17時30分頃にも、JR成田線久里浜発成田空港行快速電車がJR成田駅を発車した直後に連結部から発火。3件の事件全ての焼け跡から時限発火装置が見つかる。JR東日本では、運休や遅延などにより約1万人に影響が出た。
2000年代
- 2000年(平成12年)
- 4月1日:コージェネレーションシステム導入・運用開始。
- 7月7日:第1ターミナルビル第2サテライト供用開始。
- 2001年(平成13年)10月31日:暫定平行滑走路の完成。
- 2002年(平成14年)
- 2月21日:暫定平行滑走路(B滑走路)の供用開始日に関するノータム(航空情報)を発出する。
- 4月12日:成田空港駅に停車中の京成電鉄の特急列車の車内に時限発火装置が仕掛けられ、連結部分より発火。
- 4月18日:2本目の滑走路・暫定平行滑走路の供用開始。これにより、中華民国・台湾のチャイナエアライン(中華航空)とエバー航空(長榮航空)が羽田から成田へ移管、中国国際航空など中華人民共和国の航空会社と翼を並べることとなる。
- 5月13日:回転翼航空機(ヘリコプター)の受け入れ条件を一部緩和。
- 5月27日:第2旅客ターミナルビル出発ロビー北側増築部(Wカウンター・Yカウンター)の供用開始。
- 9月25日:第2旅客ターミナルビルスイングゲートの供用開始。
- 10月16日:空港南口ゲートの供用開始。
- 10月27日:芝山鉄道の供用開始。
- 12月16日:第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。
- 2003年(平成15年)
-
1月20日:公団、新東京国際空港の改称「成田国際空港」および新会社「成田国際空港株式会社」の名称について扇国土交通大臣へ要望書を提出。
-
1月27日:全日本空輸908便(ボーイング767-300)が、B滑走路を約70mオーバーランし草地に突っ込み、誘導路灯や滑走路末端補助灯を倒し停止した。このため開港後初めて事故により滑走路が閉鎖された。
- 4月17日:第2旅客ターミナルビル北側および地上通路沿いのスポットの供用開始。
- 5月29日:開港以来の航空貨物取扱量3,000万トン達成。
- 11月17日:航空燃料輸送量1億kl達成。
- 2004年(平成16年)
-
4月1日:新東京国際空港公団が民営化され「成田国際空港株式会社」に改組し、同時に空港の正式名称も新東京国際空港から「成田国際空港」に改称、第2給油センター供用開始。
- 10月19日:第1ターミナルの第1サテライトと第2サテライトを結ぶ連絡通路が開通。
- 11月25日:第1旅客ターミナルビルの第4サテライトが開業。
- 2005年(平成17年)
- 6月8日:開港以来の離着陸回数が300万回達成。
- 7月15日:暫定平行滑走路を本来の計画とは逆の北側延伸で、国交相と成田国際航空会社・社長が同意。
-
11月:元過激派16人が日本国政府から、1978年3月26日の成田空港管制塔占拠事件の損害賠償として、約1億300万円の支払いを求められ、2005年になって給料を差し押さえられた。
-
11月8日:第2ゲートの検問を突破した男を千葉県警察の警察官が追跡中、同県佐倉市直弥の路上で男にナイフで刺され、1人(成田国際空港警察署)は右脇腹を刺され死亡、もう1人(佐倉警察署)は左腕に軽傷を負う。男は他の警察官に殺人未遂などで現行犯逮捕。
-
11月18日:旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社と成田国際空港会社が東京地検の捜索を受ける。
- 2006年(平成18年)
-
1月15日:空港反対同盟熱田派元代表・熱田一(派閥に本人の姓が冠されている)が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明。「若者が世界へ飛び立ち、帰ってくることによって日本の将来に役立つと考えた」と述べ、反対運動から完全に身を引く。
- 4月13日:ILSカテゴリーIIIb運用開始。
- 6月2日:航空会社再配置、第1旅客ターミナル南ウイング(第5サテライト)・第4 -
第5サテライト連絡地下通路が供用開始。
- 7月10日:成田国際空港会社、国に対し平行滑走路の北伸2500 m化に伴う飛行場変更申請。
- 2007年(平成19年)
- 11月18日:開港以来の航空貨物取扱量4,000万トン達成。
- 12月26日:第1旅客ターミナル中央エリアおよび北ウイングの供用開始。
- 2008年(平成20年)
-
3月6日:成田市南三里塚の雑木林で迫撃砲2門が発見される。翌7日、成田国際空港会社空港技術センター(芝山町岩山)で迫撃弾が発見される。革命軍を名乗る組織から「1日午前6時45分に滑走路に撃ち込んだ」との犯行声明文が報道機関に送られる。
-
3月16日:15日午後5時すぎから4時間近くにわたり、北朝鮮から発射された電波により成田空港の管制システムで混信が発生する。業務に支障は起きなかったが、総務省は国際電気通信連合
(ITU) の無線通信規則に定める識別信号の送出を行っていないと認められたため、国際電気通信連合に通報した。
- 4月1日:緊急地震速報を運用導入。
-
5月20日:開港30周年を迎え記念式典が催され、これを記念して日本航空のボーイング747-400型機に特別塗装が施された。
- 9月12日:旧NAA本社ビル跡地に第5駐車場 (P5) がオープン。
-
9月25日:当時国土交通大臣であった中山成彬が、成田空港建設の反対闘争に関する「ゴネ得」発言が問題となる。この際、他の発言とともに問題視されたが、中山大臣は反対闘争に対する発言の責任を取る形でその後辞任した。
- 10月4日:第2ターミナル サテライト到着コンコース和的整備がグッドデザイン賞を受賞する。
- 10月16日:第7貨物ビルおよび貨物地区トラック待機場の供用開始。
- 2009年(平成21年)
-
3月23日:フェデックスのマクドネルダグラスMD-11Fが着陸失敗し大破炎上、乗員2名死亡。開港以来初の全損及び死者の出た事故である。
-
4月:前項の事故を受け、B滑走路2500m供用開始時期を「2010年3月から2009年10月に前倒しする」方向で成田国際空港会社と国土交通省が協議に入る。
- 5月20日:成田国際空港会社と国土交通省の協議の結果、B滑走路2500
m供用開始日を「2009年10月22日」に正式決定。成田市の小泉一成市長は、同日、空港会社によるB滑走路供用開始日が決定したことに伴い「航空機の発着時の安全性がより確保されるとのことで一定の理解をする」としたうえで、「空港会社に対して、騒音の影響を受ける地域への丁寧な説明を要請している」と述べる。
- 7月30日:B滑走路東側誘導路、供用開始。
- 9月17日:空港会社は、空港反対派らが持つ「一坪運動共有地」と「土地」を空港会社へ売却を求める訴訟を起こす。
- 10月22日:B滑走路、2500 m化供用開始。
-
12月15日:成田空港周辺の9市町長(成田空港圏自治体連絡協議会)は夜間の離着陸禁止の規制を緩和し、運航時間を延長する案を成田国際空港会社側に示す。
2010年代
- 2010年(平成22年)
-
2月25日:空港用地内B誘導路付近にある“反対派最後の聖域”とも言われていた団結小屋「天神峰現地闘争本部」を撤去し土地をNAAへ明け渡すようにNAAが提訴した裁判で、千葉地裁は撤去を命じる判決。反対派は控訴。
- 3月28日:A滑走路を離陸専用、B滑走路を着陸専用に使い分け開始。
- 7月17日:京成電鉄の新路線として成田スカイアクセス線が開業。空港第2ビル駅 -
日暮里駅間が最速36分とアクセスが改善された。
-
9月17日:利用者のさらなる利便性を図るための取り組みとして、第2ターミナルにおいて、成田国際空港株式会社とJTBグローバルマーケティング&トラベルによる成田空港プレミアムコンシェルジュサービスの共同実証実験が期間限定(同年11月16日まで)で開始する。
- 2011年(平成23年)
-
5月20日:「天神峰現地闘争本部」撤去の控訴審で、東京高等裁判所(井上繁規裁判長)は一審を支持し反対派の控訴を棄却する判決、反対派は上告。
- 6月23日:NAAが成田空港闘争の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港
空と大地の歴史館」を航空科学博物館駐車場傍に竣工し開館。
- 8月6日:5月の東京高裁判決に基づく仮執行により、千葉地裁が「天神峰現地闘争本部」を強制撤去。
- 2012年(平成24年)
- 1月25日:最高裁判所は反対派の上告を棄却、反対派の敗訴が確定。
-
11月28日:4月の東京高裁判決(C滑走路用地内の地権者に対する訴訟)に基づく仮執行により、千葉地裁が「横堀団結小屋」を強制撤去。
- 12月13日:A滑走路を、4000mの全面運用を開始。
- 2013年(平成25年)
-
3月7日:B滑走路の西側誘導路の約720メートル延長と横堀地区エプロンの供用開始。これによりA滑走路、B滑走路、2本の滑走路の発着数が1時間当たり58回から64回に増え、年間発着枠も25万回から27万回に拡大された。
- 3月31日:オープンスカイ(航空自由化)開始。悪天候などやむを得ない場合に限り離着陸を午前0時まで延長。
- 4月1日:国際線の着陸料を平均5.5%値下げ。値下げは2005年以来となる。
-
4月25日:2009年9月17日に空港会社が空港反対派らが持つ横風用滑走路(C滑走路)予定地上の「一坪運動共有地」を空港会社への売却を求め提訴した訴訟について、最高裁は2件について地権者54人の上告を却下する決定をし、買収に応じるよう命じた、一審・二審判決が確定した。これにより、空港会社が2009年に提訴した6件の訴訟は4ヶ所で空港会社の勝訴、2ヶ所で和解して終結した。今後、訴訟になっていない数ヵ所について交渉を続け、取得を目指すとしている。
- 5月20日:空港開港から35年となる。未だに建設計画自体が終了せず。
- 7月3日:京成バスが東京駅~成田空港間で格安高速バス「東京シャトル」を運行開始。
-
9月27日:第2ターミナルビルとサテライトビルを結ぶ、新たな連絡通路の供用を開始し、シャトルシステムの運行を終了した。
- 2014年(平成26年)
- 10月30日:
第3旅客ターミナルビル(LCC専用ターミナルビル)が、第2ターミナルビルの北側に完成し、2015年(平成27年)4月8日より供用を開始すると発表。
- 2015年(平成27年)
-
3月30日:1978年の開港以来続けてきた、利用客らの身分証明書を1人ずつ確認する、成田空港入場前の検問が廃止され、顔認識システムや監視カメラを利用した、新しい機械警備システムの運用が開始。
- 4月8日:第3旅客ターミナルビル(LCC専用ターミナルビル)の利用開始。
- 11月12日:携帯型機械翻訳装置「メガホンヤク」が試験導入される。
- 2016年 (平成28年)
- 3月15日:第1ターミナル第5サテライトにて固定ゲートの増築部分がオープン。(予定)
主な航空機事故
- 2001年12月1日:着陸して駐機場に移動中のミュンヘン発のルフトハンザドイツ航空714便、エアバスA340-300型機の主翼が、離陸のため誘導路に停止中のソウル・仁川行き日本エアシステム253便、エアバスA300-600R型機の尾翼に接触した。
- 2003年1月27日:ソウル・仁川発の全日本空輸
(運航はエアージャパン)908便、ボーイング767-300(JA605A)が、B滑走路への着陸に失敗し約70mオーバーランし草地に突っ込み、誘導路灯や滑走路末端補助灯を壊し停止した。このため開港後初めて事故により滑走路が閉鎖された。詳細は全日空機成田空港オーバーラン事故を参照。
-
2009年3月23日:広州発のフェデックス80便、マクドネル・ダグラスMD-11F貨物機が、6時49分にA滑走路への着陸に失敗、左主翼が接地し反転、滑走路脇で炎上、操縦士と副操縦士の両名が死亡。開港以来初の航空機墜落全損死亡事故となり、事故後A滑走路は開港以来最長の26時間21分にわたり閉鎖。詳細はフェデックス80便着陸失敗事故を参照。
-
2012年6月20日:北京発の全日本空輸956便、ボーイング767-300(JA610A、乗員乗客193人)が着陸時に大きな衝撃を受け機体が1メートルほど変形した。詳細は全日空機事故#全日空956便を参照。
- 2013年1月16日:成田発香港行キャセイパシフィック航空(エアバスA330、乗員乗客117人)が、離陸後に機内で煙が出たため同空港へ引き返した。
- 2014年12月16日:ソウル・仁川発ダラス行アメリカン航空282便(ボーイング777-200ER、N751AN)が、ソウル仁川を離陸後の2
-
3時間後に日本上空を飛行中乱気流に巻き込まれたため、17日午前0時50頃に同空港へ緊急着陸した。乗員乗客255人(うち乗客240人・乗員15人)のうち12人が負傷し、そのうち6人は病院へ搬送され2人が骨折した。
施設
Шаблон:Wide
image
3棟の旅客ターミナルビルと複数の貨物用施設が点在している。3棟の旅客ターミナルビルの間は無料のターミナル間連絡バスなどの交通機関によって結ばれている。両ターミナル間は連絡バスで約10-15分。
複数ターミナルを持つ大規模空港に多く見られるように、ターミナル間の距離が離れているため、ターミナルを間違えると移動に時間がかかる。特に、1990年代から増加している他社とのコードシェア便(共同運航便)では注意が必要であり、実際に機材を運航する航空会社が使用するターミナルに向かう必要がある。
開港から14年半余り経過した1992年12月に第2ターミナルが開業した。日本航空グループと全日本空輸グループが第2ターミナル