景福宮(けいふくきゅう、朝鮮読み キョンボックン)は李氏朝鮮の王宮。現在の韓国のソウル特別市にある。
李成桂により1395年に現在の大韓民国ソウル特別市鍾路区世宗路1-56に置かれた李氏朝鮮の王宮である。近代では、大日本帝国に併合された後に朝鮮総督府の庁舎が置かれた。大韓民国が建国された後は、敷地の一部に大統領官邸(青瓦台)が置かれている。現在は景福宮の中心部に1867年に興宣大院君によって再建された勤政門や勤政殿などが現存し、建物の復元事業が行われている。
李氏朝鮮の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定。無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まった。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成した。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失した。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した。
その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。
朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移したが、1896年に高宗はロシア公使館へ逃げ込み、そこで政務を執るようになり(露館播遷)宮殿には王が不在となった。その後正宮は1897年に慶運宮(徳寿宮の当時の名称)に、1907年に純宗の即位で昌徳宮に移る。1910年、韓国併合条約により大韓帝国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮に代わり、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1925年に完成した。これらは日本統治時代に敷地内の建物の8割以上[]が破却された。また光化門は正面から移設された。この結果、宮殿は正面から見えなくなった(外部リンクの写真参照)。李氏朝鮮以来の景福宮の景観変化と敷地への朝鮮総督府庁舎建設は独立後の韓国人にとって歴史的屈辱の象徴とされている。
韓国独立後、景福宮内の旧朝鮮総督府庁舎は1986年から1995年まで博物館に利用されていたが、景福宮復元計画により賛否両論の中で1996年に破却された。現在は光化門を正門、勤政殿を正殿とし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。これは北京の紫禁城などの様式を倣ったもので、儒教の思想や伝統にかなったものである。また中には優雅な庭園が配されており、宮殿の中にいながら山河に遊ぶことができるようになっている。現在は宮殿北側にある部分が大韓民国大統領官邸(いわゆる青瓦台)に使用されている。光化門は1968年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたが総督府庁舎があったため正確な位置ではなかった。そのため2006年に撤去され、2009年に宮殿全体とともに正確な位置に復元される予定であり、2025年には景福宮復元事業が完了される予定である。