救世主ハリストス大聖堂(きゅうせいしゅはりすとすだいせいどう;ロシア語:Шаблон:Langフラーム・フリスター・スパスィーチェリャ;英語:Шаблон:Lang)は、ロシアのモスクワにある正教会の大聖堂。
「ハリストス」とは「キリスト」のギリシャ語・ロシア語読み。日本語訳されたロシア人の著作や日本ハリストス正教会の刊行物等では、「キリスト」ではなくギリシャ語・ロシア語に近い表記である「ハリストス」を尊重して救世主ハリストス大聖堂と表記されているが、救世主キリスト大聖堂と表記される事もある。"Шаблон:Lang"(フリスター)は"Шаблон:Lang"(ハリストス)が格変化したものである。
モスクワ中央部モスクワ河畔に位置し正教会の大聖堂中、最も高い103メートルの偉容を誇る。救世主ハリストス大聖堂は、ロシア正教会モスクワ総主教直轄の首座聖堂である。1931年スターリンの命令によって爆破されたが、ソ連崩壊を経て再建された。
設計による当初案]] 1812年12月25日ロシア皇帝アレクサンドル1世によって、ナポレオン戦争(1812年ロシア戦役、祖国戦争)後、戦勝記念と戦没者慰霊を目的に大聖堂の建立が勅裁された。実際に建設が開始されるまでは時間がかかり、1817年着工された。A・ヴィットベルク設計による当初案では、新古典主義を基調とし、建築フォルムに意味を持たせた意欲的なものであった。大聖堂は、モスクワ・ひばりが丘に建設される予定であったが、ヴィットベルクが経理上の誤りの責任を問われてヴャトカに流刑とされた上、敷地予定地の地質が軟弱であったため、1826年工事は一旦中止に追い込まれた。
以前・爆破される前の救世主ハリストス大聖堂の遠景]] その後、アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世の依頼を受けたコンスタンチン・トーン(コンスタンチン・トン)の再設計により、1839年に現在のモスクワ河畔、クレムリンの向かい側に敷地を移して建設工事が再開された。建設に先立ち予定地にあった教会、修道院は移転した上で1839年9月10日基礎工事が終了した。トーンは、設計にあたってはアギア・ソフィア大聖堂に範を取り、ナポレオン戦争におけるロシア正教の勝利をテーマに設定した。内装はヴァシーリー・ヴェレシチャーギンらロシア国内の芸術家を総動員し、19世紀における技術革新によって可能となった巨大な内部空間に壁画や彫刻を配置した。特にフレスコ画は完成に12年を閲し、この荘厳な大聖堂は完成に44年もの歳月を要した。大聖堂は、1883年5月26日アレクサンドル3世の戴冠式に献堂された。また、前年にはチャイコフスキーの「序曲1812年」が大聖堂で演奏されている。
ロシア革命により、ロシア正教会は大打撃を受ける。1917年救世主ハリストス大聖堂において聖務会院が廃止され、総主教制が復活する決定が成されたが、「宗教はアヘン」と見なすソビエト政権によって正教会に対する圧迫、迫害は続き、正教会はソビエト国家への従属を加速化していった。レーニンの後継者となったスターリンは、反宗教政策を激化させていった。1931年7月18日イズヴェスチヤ紙にソビエト宮殿(ソビエト大宮殿、)設計コンペティションの要項が掲載された。そしてソビエト大宮殿建設地には、大聖堂の場所が指定された。新聞は大聖堂について「グロテスクかつ、全く非芸術的」「モスクワの顔にさいた毒キノコ」であると連日、批判を加えた。こうしてソビエト宮殿建設を名目として救世主ハリストス大聖堂の爆破解体が決定され12月5日大聖堂は爆破された。
大聖堂の爆破解体後、数次に渡るコンペ、技術的諸問題の解決を経て、ソビエト大宮殿の建設は緒に就いたが、第二次世界大戦による中断と、敷地の軟弱な土壌及び塔の先端にそびえ立つレーニン像が雲に隠れやすいという理由により、宮殿建設は永久に中止となった。宮殿の基礎建築跡には屋外市営温水プール「モスクワ」(モスクワ水泳場)が建設され、ソ連時代を通じてモスクワ市民に利用された。
ゴルバチョフ時代末期の1990年ロシア正教会聖シノドは、救世主ハリストス大聖堂の再建を決議し大聖堂再建をソ連政府に正式に要請した。ソ連崩壊後、モスクワ市長のユーリ・ルシコフは1997年のモスクワ建都850年の目玉として、この大聖堂の再建事業に着手した。ロシアの民族主義やロシア正教会の台頭も再建事業を後押しすることとなった。
1994年、モスクワ市の財政援助の下、再建工事が着手された。 再建にあたっては建築家、歴史学者、科学アカデミー調査研究員、複製技術者が多数動員され、全高103メートルのドームを中心に据えたギリシャ十字型の平面プラン、1万人を収容可能な内陣など細部に至るまで以前の大聖堂に忠実に再現された。
新しい大聖堂は2000年8月19日、主の顕栄祭に落成した。