富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山。
標高3,776m。日本最高峰<ref>日本が台湾を領有していた時期を除く。</ref>であるとともに、日本三名山(三霊山)、日本百名山・日本の地質百選のひとつでもある。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
から見た富士山(2001年5月27日 アメリカ航空宇宙局)]]
富士山の優美な風貌は、国内のみならず海外でも日本の象徴として広く知られている。芙蓉峰・富嶽(富岳)などとも呼ばれる。古来より歌枕として著名である。
古来より霊峰といわれ、富士山を開いたのは、平安末期の1149年(久安5年)山頂に一切経を埋納した富士上人と称された末代(まつだい)であると伝えられている(『本朝世紀』)。江戸時代後期の1800年(寛政12年)まで富士山は女人禁制であった。富士山の登山は歴史上で最古の富士山登山道である「村山口」から大きく発展した。
外国人として初めて富士山の登頂をなし得た人物として、記録されている中では1860年のラザフォード・オールコックによる富士宮口からの登山とされている。
富士山麓周辺にはキャンプ場や観光名所が多くある。また、登山道は、富士宮口、須走口、富士吉田(河口湖)口、御殿場口などがある。
山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく<ref>富士山年・月ごとの値(気象庁)</ref>、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分類される。
富士山は、古文献では不二山もしくは不尽山<ref>(例)「田子の浦ゆ、うち出でて見れば真白にぞ、不尽の高嶺に雪はふりける」山部赤人 (万葉集)</ref>と表記される。
また、『竹取物語』の最後の章では、かぐや姫から不老不死の薬を授けられた帝が、家臣に命じて不老不死の薬を駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で焼くという描写があるが、最後の記述は、「以来、その山のことを“ふしの山”(ふじの山) と呼ぶようになった」(要旨)というものとなっている。
これは日本最高峰の並ぶものの無い「不二」の山という意味とされる。その後、鎌倉時代以降に表記が転じて「富士」となった。これは「士が富む」として武士好みの表記であったという。
近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏端に鎮座する火の神の老婆を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある(フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味)。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説などがある。
なお英語では “Mount Fuji” または “Mt. Fuji” と表記する。以前は「山」を訓読みし “Fujiyama” とすることもあったが近年では稀である。
地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。日本の地質百選の一つ。
現在の富士山の山体の形成は、大きく四段階に分かれる。
この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2kmのところにあったと考えられている。
Шаблон:Main 最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500–2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前–約3,200年前の1,300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。
延暦19年 - 21年(800年-802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。
宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述のとおり富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。
富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。
中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。
富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。
山頂の直径約800mの火口の周りに8つの峰があり、これを八神峰と言う(富士八峰とも)。この八神峰の周りを一周することをお鉢巡りという。
宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらは間近で見ることができ、そのための登山コースも整備されている。 Шаблон:Main
万葉集の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
平安時代前期の文人である都良香の『富士山記』には富士山の絵や様子が明記されている。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、続日本紀に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。
江戸時代に、最も激しい活動を見せたのは宝永4年(1707年)12月16日に発生した大爆発(宝永大噴火)であり、江戸の市街に大量の降灰をもたらした。この記録については、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在するが、その総本宮が富士山本宮浅間大社(浅間大社)である。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。
『本朝世紀』によると1149年(久安5年)に末代(まつだい、富士上人)が山頂に一切経を埋納したと伝えられており、現在も富士山頂出土と伝えられる埋納経が浅間大社に伝わっている。
富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。また、徳川家康がに浅間大社に土地を寄進した経緯で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内となっている。但し、静岡県、山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。<ref>富士山本宮浅間大社ホームページより</ref>
浅間神社の祭神がコノハナノサクヤビメとなった経緯としては、コノハナノサクヤビメの出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。
『目黒元不二』歌川広重)]] 江戸時代になると、富士山の登拜が庶民の間でも広く行なわれるようになった。これは戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行藤仏(天文10年(1541)-正保3年(1646)がおこなった富士信仰から始まるとされる。庶民は富士山への信仰を強くし、特に江戸の各地には富士山を遥拝する富士塚が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた人工の小さな山で、富士山がよく見えるところに作られ、山頂には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。 Шаблон:Main こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して幕府にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、1774年から1849年に江戸町奉行所は7回の禁制の町触を出している。<ref>岩科小一郎「富士信仰の今昔」『あしなか』第259号・第260号合冊号所収(神崎宣武『江戸の旅文化』による)</ref> これらの新宗教は明治期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。現在においても富士山は新たな信仰を生み出す基盤となっており、オウム真理教、法の華三法行が富士山の麓に本部を置いたことがある。
宗祖・日蓮大聖人の「富士山に本門の戒壇を建立すべきものなり(要旨)」との遺命に基づき、富士山麓に大石寺が建立されている。その他にも、日蓮の高弟日興及びその弟子たちによって有力な宗派が開設されており、上条大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、下条妙蓮寺を総称して富士五山と呼ばれる。
古くは、常陸国風土記に富士山の神と筑波山の神の逸話が記されている。親神が富士山の神のもとを訪れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。親神は次に筑波山の神のもとへいき、同様に宿を乞うたところ、今度は親神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には絶えず雪が積もり人々が来なくなったという。
平安時代の文学の『更級日記』には、富士山の神が、朝廷の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。
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富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国絵画的な山岳図として描かれている。
鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着床された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。
室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵 重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使してなかでも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』や荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。
また、歌川広重(安藤広重)も北斎に後れること『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版し、広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。
日本画全般の題材として「富士見西行」がある。巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。また、日本画家の横山大観や片岡球子なども富士山を好んで描いている。
すでに見たように、富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。
万葉集には山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ(ぞ)富士の高嶺に雪は降りける」(巻3・318)という富士山を歌った有名な反歌があるが、その次に作者不詳の長歌があり、その一節に「・・燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ・・」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。
『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)
都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。
『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、大勢の武士を登山させてかぐや姫が時の天皇に贈った不老不死の薬を、天に一番近い山(富士山)の山頂で燃やしたことになっている。それからその山はふじ山(富士山・不死山・不尽山)とよばれるようになったとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している<ref>竹採公園(富士市Webページ)</ref>。
ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。また、古代甲斐が馬産地であることから成立した甲斐の黒駒伝承に、平安時代には聖徳太子が黒駒に乗り富士の上を越えたとする伝承が加わっている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を現している。
中世には近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品のなかで富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。
高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」
富士山は、見る場所・角度・季節・時間によって富士山の表情は非常に変化する。この項目では代表的な富士山の姿を掲載する。
赤富士 夏の朝、露出した山肌が朝焼けによって赤くなった姿をいう。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残している。 紅富士 雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿をいう。 逆さ富士 富士山が、非常に穏やかな水面に映り、逆さの富士山が綺麗にみえる姿をいう。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。 ダイヤモンド富士 太陽が昇った時もしくは沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近が光る現象のこと。富士山が東か西の方向に見える場所で、年に2回、楽しむことができる。ダイヤモンド富士のスポットに関しては国土交通省関東地方整備局のホームページが参考になる。[1] 傘雲を伴う富士山 富士山の頂上に傘をかぶったような雲が乗ることがある。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。一般的には毎年7月1日の山開きから8月26日の山じまいまでである。この期間はほぼ全ての山小屋が営業しているため、登山客が集中する。実際には、残雪の状態や8月末または9月最初の土・日曜日の日付などにより毎年変更される。また、7月上旬は残雪の状態によっては一部の登山ルートが使えないこともある。 Шаблон:Main
からの富士山]] 富士山はその優美な姿から、登山だけでなく、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。
箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名である。
富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。
白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。
朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている。
ダイヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を目的とする観光客が多い。
1990年代初めから、富士山をユネスコの世界遺産に登録しようという運動が行われている。当初は世界遺産のうちの自然遺産への登録が検討されていたが、地元調整がつかず環境管理(特にゴミ問題)が困難なため国は推薦を見送った<ref>首相官邸FAQ(お答えします)</ref>。現在は文化的景観という観点から世界遺産のうちの文化遺産への登録手続きが進められており、2007年に暫定リストへ登録され、今後国際記念物遺跡会議による調査が行われることとなる。
富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。また、富士山一帯の宗教施設への参拝や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題<ref>富士山有料道路マイカー通行規制(富士山NET - 山梨日々新聞社)(静岡県側は当初からお盆前後に集中実施、山梨県側は当初は観光客の利便に配慮し分散実施とし、後に静岡県側と同様に集中実施とした)</ref>、世界遺産登録問題<ref>『世界遺産 富士山 暫定リスト入り』(2007年6月28日付け産経新聞山梨版)</ref>等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署のこと。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。 Шаблон:Main
富士山が日本を代表する名峰であることから、各地に「富士」の付く地名が多数存在する。富士山の麓として静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河口湖町があるほか、よくあるものとして富士が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。海外に移住した日本人たちも、自分たちの住むところの近くの山を地名をつけて「○○富士」と呼ぶこともある。他の例については、曖昧さ回避ページ富士見、富士街道などを参照。
全国各地には少なくとも、314座を超える数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。 Шаблон:Main
「富士山のように日本を代表する存在になる」、「富士山がきれいに見える土地で創業・営業」、などの理由で名づけられている。 Шаблон:Main
静岡市薩た峠から望む富士山と駿河湾
田貫湖からの逆さ富士
空から見た富士山
影富士
雲がかかる富士山
御殿場市からの富士山
東京(新宿高層ビル群)と富士山
東京湾上空より
富士山と浅間山の噴煙(解説無し画像)
群馬県上空から見る富士山と利根川
日本海上空より。手前から立山連峰、後立山連峰、八ヶ岳、南アルプス、富士山(2006年11月撮影)。 説明入り画像はこちら
甲斐(山梨県)側からの富士山
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