名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。金鯱城、金城ともいい日本100名城にも指定されている。
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
大坂城、熊本城とともに日本三名城に並び称され、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期までは現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。Шаблон:和暦、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、Шаблон:和暦、信長が清須城に本拠を移したため、廃城とされた。
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康はШаблон:和暦に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。Шаблон:和暦、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
の距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。2009年2月。]] 普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、Шаблон:和暦までに大天守が完成する。
清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施したШаблон:和暦頃から徳川義直が名古屋城に移ったШаблон:和暦の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守(下記にあるように、名古屋城内西北隅櫓が相当するか)も移るという徹底的なものであった。
Шаблон:和暦には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。
Шаблон:和暦東京鎮台第三分営が城内に置かれた。Шаблон:和暦には名古屋鎮台となり、Шаблон:和暦に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
保存された本丸は、Шаблон:和暦に、濃尾大地震により、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。Шаблон:和暦、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮はШаблон:和暦に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。
名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開し、また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させたりなどしていたが、Шаблон:和暦5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。米軍はあくまで誤爆だったとしている。
戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。
天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付によりШаблон:和暦に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊等の資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。
市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」がШаблон:和暦5月14日に設立され、Шаблон:和暦から再建基金の寄付を募った。
Шаблон:和暦本丸御殿復元の許可が文化庁よりあった。
現在、Шаблон:和暦に再建工事を着工し、Шаблон:和暦における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。
Шаблон:和暦完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される。
Шаблон:和暦4月6日、日本100名城(44番)に選定され、Шаблон:和暦6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。
築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。したがって、姫路城のような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者には好まれず、ある軍学者Шаблон:誰は実際に「縄張宜しからず」と酷評した。
しかし、現代の城郭研究者Шаблон:誰からは、名古屋城が築城された江戸時代初期は攻城戦術・技術が成熟しきっていた時期であり、その時点で、徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城を、あえてこのような縄張にしたことは考慮すべきことである。当時の名古屋城の築城思想が、篭城戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、あるべき篭城戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、縄張の良否を簡単に断言することはできない、という意見が見られる。
構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。
西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積をもつはずだったが、大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。但し、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。
本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。
本丸の3つの虎口のうち南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に2重の城門で構成される枡形門があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた。馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5m強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた。現存しているのは南二之門である。不明御門は埋門(うずみもん)形式で非常口として使われていたが、戦災により焼失した。
南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。
なお現在空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放されている。
天守は本丸の北西隅に位置する。連結式層塔型で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。
大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6m(石垣19.5m、本体36.1m)と、18階建ての高層建築に相当する。高さでは江戸城や徳川再築の大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び、その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7尺)が敷き詰められていたといわれる。層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残を残す。
大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が2層目以上のすべてに葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、Шаблон:和暦に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が石垣の上に設けられた。
壁面は大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。
小天守は2層2階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。平面は長方形で外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城の3層天守よりも大きい。
大天守の西にもう一つの小天守があったもしくは、建てられる計画があったという説がある。 大工頭を担当した中井氏にその説の根拠としている小天守の描かれた指図が残されており、また実際に、大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる。
天守はШаблон:和暦に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、Шаблон:和暦の空襲で焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火して焼失したといわれている。
Шаблон:和暦名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC)造の大天守を載せる外観復元とし、起工式はШаблон:和暦6月13日、竣工式はШаблон:和暦10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。
通常は城主(藩主)が居住する御殿であり、実際に築城直後はそうであったが、Шаблон:和暦将軍上洛時の御成専用とすることになり、以後藩主は二の丸に居住するようになった。しかし、実際に本丸御殿を使った将軍は秀忠と家光のみで、その後はまったく使われず、尾張藩士により警備と手入れが行われるだけであった。
御成専用とするだけあって、本丸御殿は当時の二条城本丸御殿に匹敵した。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。
これら殿舎等はすべて第二次世界大戦で失われたが、内部にあった障壁画の一部は取り外され、隅櫓などに収められていたため焼失を免れ、それらは重要文化財に指定され、再建天守に保存されている。現在本丸御殿の再建計画が実施されており、平成21年1月19日に着工した。
二の丸は当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二の丸に将軍の御座所を設けていた。家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折には二の丸に滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二の丸にあった平岩親吉(Шаблон:和暦没)の屋敷を改修して、Шаблон:和暦二の丸御殿とした。それ以後、二の丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。
本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二の丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三の丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二の丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。二の丸御殿は二の丸の北側に位置し、南側に馬場があった。
二の丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。
黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二の丸庭園があった。この二の丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。
現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。馬場跡には愛知県体育館が建てられている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。
西丸(にしのまる)は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
西丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみはШаблон:和暦に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西丸には名古屋城管理事務所と天然記念物カヤの木がある。
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西丸とも狭い通路でつながっていた。
櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。3層3階のその規模は弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。Шаблон:和暦に清洲城天守または小天守を移築したものと伝えられているため清洲櫓とも呼ばれている。解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっているため、実際に清洲城から移築されてきた可能性もある。戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっているが、抜本的対策がないままとなっている。
御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。
また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦作りと言われる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたと言われる。Шаблон:和暦に国の登録有形文化財に登録された。
その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。
三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下(はばした)御門(埋門)、南面西側に御園(みその)御門、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。
三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、一宮市の妙興寺総門が清水御門を移築したものであるらしい。名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。
明治以降は官庁街として発展した。また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された(後述)。
現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎が建てられ、愛知県行政の中枢地域である。
で公開された金鯱]]
Шаблон:和暦名古屋城天守が竣工した当時のものは一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。高さは約2.74mあった。
しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあったこともある)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。Шаблон:和暦に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱はШаблон:和暦のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのはШаблон:和暦2月である。
徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、Шаблон:和暦に名古屋大空襲で焼失している。 焼夷弾で焼失した金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、Шаблон:和暦に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、全国でも数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により復元製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。
金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。ただし、3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。
名古屋城の金鯱がШаблон:和暦3月24日に開会した愛・地球博の開会式典で展示された。これまでにも名古屋城の博覧会開催により、天守から地上に降ろして名城公園内の博物館に展示された事はあった(今回の場合は愛・地球博に併せて開催された新世紀・名古屋城博のための展示だった)が、外部施設での展示はШаблон:和暦に再建されてからは初めてのことだった。
また前日の3月23日は名古屋市内16区を雄・雌に分けて周り、一般市民にお披露目し中区栄では2体揃ってのパレードを行った。
その時の公開された各区の場所は以下のとおり。
名古屋城三の丸を囲む外堀の底には、明治後期から昭和後期にかけて電車が走っており、「お堀(濠)電車」とも呼ばれた。
大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋官庁街への乗り入れを図り、Шаблон:和暦5月23日に土居下〜大曽根間、10月1日に堀川〜土居下間を開業させた。土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。そのかわり、堀の角部で半径60mの急曲線があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いるなど、線路敷設には苦労の跡が見られた。
瀬戸電気鉄道は、Шаблон:和暦に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工されたШаблон:和暦2月15日をもって堀川〜土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。
第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城内を埋め尽くしていたが、Шаблон:和暦5月14日8時20分頃、米陸軍のB-29による焼夷弾により天守を含むほとんどを焼失した。
現在残る尾張藩時代の建物は6棟(本丸辰巳隅櫓、同未申隅櫓、同南二之門、旧二の丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二の丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓)のみ。すべて重要文化財である。また、昭和27年(1952年)3月29日に城域内が国の特別史跡に指定された。このほか、二の丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存している。
(以上4棟はШаблон:和暦、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定、Шаблон:和暦文化財保護法施行に伴い重要文化財となる。)
(以上二棟はШаблон:和暦、重要文化財に指定)
大天守、小天守、東北隅櫓、表一ノ門、東一ノ門、東二ノ門、不明門、正門 御殿玄関、大廊下、表書院、対面所、梅之間及び鷺廊下、上洛殿、湯殿書院、黒木書院、上御膳所、下御膳所、柳之間及び孔雀之間、上台所
以上20棟はШаблон:和暦、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定。Шаблон:和暦の戦災で焼失した。本丸御殿障壁画の一部(壁貼付絵などの移動不可能だったもの)も同時に焼失した。
毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。城内で、薪能や楽市・楽座などが催される。
Шаблон:和暦から毎年東海ラジオで公開生放送されている。
Шаблон:和暦は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。
Шаблон:和暦からは名古屋城宵まつりとして開催される。