グレート・スモーキー山脈国立公園(グレート・スモーキーさんみゃくこくりつこうえん、Great Smoky Mountains National Park)は、米国の国立公園で、アパラチア山脈を構成するブルー・リッジ山脈 (Blue Ridge Mountains) の一部であるグレート・スモーキー山脈の稜線をまたいでいる。西のテネシー州と東のノースカロライナ州の州境は、北東から南西へ、公園の中心線を通っている。アパラチアン・トレイル (Appalachian Trail) も、メイン州からジョージア州までの道中で、公園の中心を横切っている。
公園は、1934年米国議会によって設立を認められ、1940年、フランクリン・ルーズベルト大統領によって公式にオープンされた[1]。面積は、2,110 km² (815 平方マイル)で、米国東部で最も広い保護地域の一つである。公園の入口は、アメリカ国道441号線 (Newfound Gap Road) 沿いのギャトリンバーグ (Gatlinburg) とチェロキー (Cherokee) の町にある。日本では、グレート・スモーキー・マウンテンズ国立公園、グレート・スモーキー・マウンテン国立公園とも呼ばれる。
公園の標高は、250 m から 2,000 m (875 から 6,643 フィート) に及んでおり、最も高い場所は、クリングマンズ・ドーム (Clingmans Dome)である。公園内には、1829 m (6,000 フィート)を超す山が16ある。
標高差の大きさが、米国東部全体の緯度の変化を再現している。実際、ここでの登山は、テネシー州からカナダへの旅行と同じである。北東部でよく見られる動植物は、公園のより標高の高い所で自らに合ったニッチを見出す一方、南方の種は、よりうららかで低い場所に住処を見つけ出した。
アパラチア山脈は北東から南西に伸びているため、多くの生き物は、最後の氷河期において、氷河の障壁となる山脈を見つける代わりに山脈に沿って南に移動することができた。気候が温暖化するにつれ、多くの北の生き物は山脈沿いに北へ戻りつつあり、一方で南の生き物は膨張しつつある。
公園は通常極めて湿度が高く、降水量が多い。平均すると、谷間では年間 1,400 mm (55 インチ) 、山では年間 2,200 mm (85 インチ) の雨が降る。太平洋岸北西部とアラスカ州の一部を除く米国のいずれの地域よりも、年間降水量は多い。また一般的に、標高の低い周辺地域より涼しく、公園のほとんどははるかに北の地域と似て湿潤大陸性気候区分に属し、低地の温暖湿潤気候とは対照的である。公園のほぼ95 %は、森で、おおよそ4分の1が原生林で、ヨーロッパ人のこの地域への入植以前から存在する木も多い。北米で、最大の落葉温帯原生林の1つである。
標高の多様性、豊富な雨量、原生林の存在が、公園の生物相を極めて豊かなものとしている。約10,000 種の動植物が公園に住んでいることが知られており、さらに知られていない生物が90,000種住んでいると見積もられている。
公園監理官は、200 種以上の鳥類、66 種の哺乳類、50 種の魚類、 39 種の爬虫類、 多くの無肺サンショウウオを含む43 種の両生類を数えている。公園は、サンショウウオの世界の首都 (Salamander Capital of the World) という渾名を持っている。公園には特筆すべきクロクマの集団がおり、少なくとも1,800頭に達する。エルク (ワピチ) の公園への再導入が2001年に始められた。
100種以上の樹木が公園で育っている。低い地域の森は、落葉樹が優位を占めている。より高地では、落葉樹は、フレイザー・モミ (Fraser Fir) のような針葉樹に取って代わられる。なお、公園では1,400種を超える顕花植物と4,000種を超える隠花植物がみられる。
グレート・スモーキー山脈国立公園は、地域における観光客の強い誘引力となっている。2003年、観光客は9百万人超、観光客以外の訪問者は1千百万人を記録し、他の国立公園の倍となっている(2006年の観光客数は、9,289,215人)。周辺の町、とりわけテネシー州のギャトリンバーグ、ピジョン・フォージ (Pigeon Forge)、セヴィアーヴィル (Sevierville)、タウンゼンド (Townsend)とノースカロライナ州のチェロキー (Cherokee)、シルヴィア (Sylva)、マギー・ヴァレー (Maggie Valley) 、ブライソン・シティー (Bryson City) は、公園によって多額の観光収入を得ている。
公園内の2つの主なビジター・センターは、ギャトリンバーグ口近くのシュガーランズ (Sugarlands)・ビジター・センターと公園の東口のチェロキーの近くのオコナルフテー (Oconaluftee )・ビジター・センターである。レンジャーが駐在するこれらのビジター・センターでは、野生動物、地質、公園の歴史が展示されている。本、地図、土産物も売っている。
アメリカ国道441号線 (公園内では、ニューファウンド・ギャップ・ロード (Newfound Gap Road)として知られている) が、公園の中央を走っており、多くの山道の起点や展望台に自動車で行くことができる。それらのうち最も有名なものはニューファウンド・ギャップ (Newfound Gap) である。標高 1,539 m (5,048 フィート)、山脈中最も低い峠であり、テネシー州とノースカロライナ州境の公園の中心に近い場所で、国境の町、ギャトリンバーグとチェロキーの間にある。1940年、ロックフェラー記念碑 (Rockefeller Memorial) から、フランクリン・ルーズベルトが国立公園の除幕式をしたのはここである。晴れた日には、ニューファウンド・ギャップで、公園内で幹線道路でいけるうちで最も壮大な景色がほぼ間違いなく楽しめる。
公園には、数多くの歴史的施設がある。それらの中で最も保存状態が良い(そして最も人気がある)ものは、ケーズ・コーブ (Cades Cove) である。ケーズ・コーブは、丸太小屋、納屋、教会といった数多くの保存状態の良い歴史的建物のある谷である。ケーズ・コーブは、公園内で最も訪れる人が多い場所であり、公園自体が米国で最も来園者が多い国立公園である。ガイドなしで自動車や自転車で公園を訪れる多くの観光客は、古い時代の南部アパラチアの生活を垣間見ることができる。
Main article: グレート・スモーキー山脈国立公園でのハイキング
112.65 km (70 マイル) のアパラチア自然歩道を含め、公園内には1,368 km (850 マイル) に達するハイキング用の山道や未舗装路がある。[2] 高さ2,009 m (6,593 フィート) のルコント山 (Mount Le Conte) は、公園内で3番目に高く、麓から頂上までの高さはミシシッピ川東部で最も高い。そうしたことから、公園内で最も人気の高い場所の一つとなっている。アルム・ケーブ山道 (Alum Cave Trail) は、頂上に通じる5つの道の中で最も人通りが多く、ルコント・ロッジ (LeConte Lodge) に泊まろうと計画するハイカーに多くの見事な眺めと類のない自然の魅力 (例えば、アルム・ケーブ・ブラフス (Alum Cave Bluffs) とアーチ・ロック (Arch Rock))を提供する。ルコント・ロッジは、簡易宿泊施設となっており(冬季を除く)、頂上の近くにある。山道でしか行けない、公園内で唯一つの民間の宿泊施設である。 人気のあるハイキング用のその他の歩道はチムニー・トップスの頂上に続く。チムニー・トップスは、そのユニークなふたこぶの山頂のため、そのように名付けられている。この短いが骨の折れるハイキングは、周囲を取り囲む山頂の壮大なパノラマで、自然を愛する人に報いる。なだらかな道が良い人にとっては、ローレル滝山道とクリングマンズ・ドーム山道は、それぞれの目的地まで比較的簡単で短く舗装されている。ローレル滝山道 (Laurel Falls Trail) は、 24 m (80 フィート) の迫力のある滝に続いている。クリングマンズ・ドーム山道は、55フィートの展望台に続いており、晴れた日にはそこから何マイルにもわたってテネシー州とノースカロライナ州の山々が見える
ハイキングに加え、公園ではトレッキングとキャンプが、特にアパラチア自然歩道沿いに設けられた山小屋で、楽しめる。指定キャンプ場も、公園中にちらばっている。いずれの場所でも宿泊には許可が必要で、その許可はほとんど常に一夜に限り有効である。
釣りは、従わねばならない厳しい規則があるにもかかわらず、公園内でハイキングと単純な観光に次ぐ人気がある。乗馬(特定の山道で公園が貸し出している)、サイクリング(ケーズ・コーブで貸し出されている)、ウォーターチュービング、いずれも公園内で行われている。
ヨーロッパの入植者がやってくる以前は、この地は、チェロキーインディアンの故国の一部であった。白人の開拓者は、18世紀と19世紀の初期に入植を始めた。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領は、インディアン強制移住法 (Indian Removal Act) に署名し、結局ミシシッピ川東部のすべてのインディアンの部族を現在のオクラホマ州へと強制移住させる結果となる一連の事件が始まった。多くのチェロキー・インディアンは立ち去ったが、反乱兵士ツサリ (Tsali) に率いられた者たちは、現在のグレート・スモーキー山脈国立公園の地域に潜伏した。その一部の子孫は、公園の南にあるクアラ保留地 (Qualla Reservation) に現在も住んでいる。
白人が入植するにつれ、木材産業が山中の主たる産業となった。切り逃げスタイルの皆伐が、自然の美を破壊しつつあったため、訪問者と地元住民は、土地の保全のための資金を集めるために、共に団結した。米国国立公園局は、米国東部に公園が欲しいと考えていたが、公園を設立するために多額の資金を使いたくなかった。 米国議会は1926年に公園の設立を認めたが、公園の設立のための中核となるべき連邦政府が所有する土地がなかった。1筆1筆土地をまとめるため、ジョン・ロックフェラー2世が5,000,000ドル寄付し、連邦政府が2,000,000ドルを加え、テネシー州とノースカロライナ州の市民も資金を負担した。1934年6月15日、公園は公式に設立された。 世界恐慌の時期に、民間資源局 (Civilian Conservation Corps)、公共事業促進局、その他の政府機関は道、火事対策の物見やぐら、その他公園のインフラ整備を行った。
公園は、1976年、生物圏保護区に指定され、1983年、ユネスコの世界遺産に登録された。
しかし、近年では、自動車、発電所、工場での化石燃料の使用による大気汚染のため、眺望の悪化、地表でのオゾンの増加、酸性雨、酸性雲等に苦しめられている。また、ヨーロッパや日本原産のアブラムシによって公園内の木々が枯死するなど、外来種の侵入も問題になっている。
Original entry was from the NASA Earth Observatory; [3]