クラック・デ・シュヴァリエ(フランス語: Krak des Chevaliers, アラビア語: Qal‘at al-Ḥiṣn (قلعة الحص))は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。十字軍時代は聖ヨハネ騎士団の本拠であり、名前は「騎士の砦」を意味する(krakはシリア語で「砦」)。
城はトリポリの東に位置した高さ650m程の峰に築かれており、アンティオキアからベイルートへ向かう海沿いの道や、内陸から地中海に出る唯一の通路(ホムスとタルトゥースの間の峠道)を扼している。元々は1031年にアレッポの領主により建築されたが、第1回十字軍時の1099年にツールーズ伯レイモンにより落城した。その後、1144年にトリポリ伯から聖ヨハネ騎士団に譲られた。
聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張を行い、コンセントリック(集中)型の城として、30mの厚さの外壁を加え、8~10mの壁厚の7つの守備塔を配置した。12世紀の頃には濠も有しており、跳ね橋が取り付けられていた。外壁は内壁との間隔を狭く、また直角の曲がり角を多くして、外壁を奪った敵が破城槌などの攻城兵器を内壁との間に持ち込みにくく使いにくいようにしてあった。
内門と外門の間には中庭があり、内部の建築物に続いていた。内部の建築物は騎士団によりゴシック調に改造されており、ホールや礼拝堂を備え、長さ120mの食糧貯蔵庫を有していた。さらに、もう1つの貯蔵庫が地下に掘られており、5年間の包囲に耐えうると考えられていた。
1170年にはほぼ完成していたが、その後も地震により一部が崩れ、何度か再建が行われた。城には50~60人の騎士と2000人の歩兵が常駐していた。周囲にはサフィータ、トルトーザ(タルトゥース)などテンプル騎士団の要塞、および聖ヨハネ騎士団の別の主要要塞マルガット城も位置し、十字軍国家による防衛網をなしていた。
1163年にヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退け、1188年のサラーフッディーンによる包囲にも耐えた。
しかし、1271年4月8日、バイバルスの調略により落城した。トリポリ伯が開城を勧めていると偽ったという。バイバルスの手により礼拝堂はモスクに変えられ、城は1291年のアッコン陥落時にも前線基地として使われた。
1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築いた。
後にアラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べている。城は十字軍美術(フレスコ画など)が保存されている数少ない場所となっている。現在はシリア政府の所有物で、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録された。