アスワン・ハイ・ダム (Arabic: السد العالي; transliterated: as-Sad al-'Aly, 英: Aswan High Dam)は、エジプトの南部、アスワン地区のナイル川に作られたダム。アスワンダムは2つあるが、現在ではアスワンダムと言うとアスワン・ハイ・ダムを指すことが多い。
古いアスワンダムは、アスワン・ロウ・ダムとも呼ばれる。1901年に完成し、以降数度にわたって拡張された。アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ダムの6.4km上流に建設され、1970年に完成した。
建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保であるが、ロウ・ダムだけでは力不足であったために、当時のエジプトのナセル大統領がソ連の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てた。高さ111m、全長3,600mの巨大ロックフィルダムである。
アスワン・ハイ・ダムの巨大な貯水池ナセル湖の名はガマール・アブドゥン=ナーセル大統領の功績をたたえてつけられた。アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止するとともに、12基の水力発電装置が210万キロワットの電力を供給。ダムにより出現したナセル湖から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化も行われた。その一方で、ナイル川の生態バランスを破壊したなどの批判もあるが、ナセル湖の漁業はとても活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。
今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっている。
ナイル川は、毎年夏に洪水が発生していた。これがナイル川流域に肥沃な土壌を形成することに役立っていた。しかし、流域の人口が激増すると、ナイル川の洪水をコントロールする必要が発生した。エジプトを保護下に置いていたイギリスは、1901年、アスワンダムの建設を行う。
アスワンダムだけでは不十分と考えたエジプト政府は、1952年にアスワン・ハイ・ダムの計画を始める。その後、エジプト革命で政権交代が起こり、イギリス主導で行われていた建設計画は中止される。
大きな利益を得られると踏んだ革命政府は建設へ向けて資金調達を始める。ナセル大統領は財源確保のために1956年にスエズ運河国有化を宣言、第二次中東戦争の発端となった。1958年、冷戦の影響もあり、ソビエト連邦が建設資金と機材の提供を申し出る。
1960年に建設が始まるが、水没地域の約9万人といわれる移住の問題解決の必要があった。同じく水没地域にあった、ヌビア遺跡のアブ・シンベル神殿は、当初そのまま水没させてしまう計画だったが、国際社会からの反対の声が強くユネスコの援助で巨額の費用をかけて湖畔に移築された。
総コスト10億米ドルをかけて1970年に完成。完成を記念した塔が湖畔に建てられている。
エジプト、スーダンに跨る広大な地域が耕作可能となった。また、ナセル湖では富栄養化により漁業が活発化した。周辺国でかんばつが起きても、エジプトは全くかんばつが起きないという。
ナイル川下流域では、土壌痩せが深刻となった。デルタ地帯ではナイル川からの土砂供給の減少により侵食が激しくなる影響がでた。また河口付近の海の生態系への影響も存在する。
当初建設後、土砂堆積でダムが使用不能になるまでには、500年かかると予想されていた。しかし現在の観測によると発電に影響が出るのが約500年後で、ダムが完全に埋まるのは約1700年先だと見積もられている。
ダム下流のナイル川周辺には数々の重要な遺跡がある。川の水が安定した水位を保っていることが周辺の土壌、ひいてはその上に建つ遺跡自体へ水分が侵入することになった。これは、史跡の保存上、悪影響があると考えられ、対策の必要性が論じられている。
ダムの建設により河川の氾濫が少なくなり、穏やかな水流になった。 そのため、船に乗りナイル川を途中遺跡に立ち寄りながらクルーズするのが盛んになった。
アスワン・ハイ・ダム完成後、下流の住民にビルハルツ住血吸虫の感染が蔓延した。これは、住血吸虫の中間宿主である巻貝が、ダムの完成でナイル川の水流が減ったことで大量繁殖したためである(ダム完成前は洪水により海へ押し流されていた)。